こういう恋の始まり方 2

こういう恋の始まり方
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シャワーを軽く浴び、物音を潜めて部屋に戻ると、そこには寝ているはずの女の姿がなかった。

サイドテーブルには1万円札と小さなメモ。
『昨夜はありがとうございました。部屋代です。』

それを見て、膝から力が抜け落ちる。
寝不足、いや一睡もしていない頭には強すぎる衝撃だ。

時計は6時。
8時半の出社にはギリギリ間に合う。
急いで身支度をしてホテルの部屋を出た。



邸に戻ると、早起きが誰よりも得意なタマがエントランスでわざとらしく拭き掃除をしていた。

「坊ちゃん、お帰りなさいませ。」

「おう。」

無駄な詮索をされない内に部屋に逃げようとする俺を、タマは簡単に逃がしてはくれない。

「朝帰りとは、珍しいですね。」

「あー、まぁな。総二郎が飲み潰れたから、」

咄嗟に出た嘘も、

「坊ちゃんの身体から何やら甘ったるい香りがします。」
と、鼻をクンクンさせて近付いてくる。

ホテルに備え付けのボディーソープの匂いを、敏感に嗅ぎ分ける老婆の嗅覚は恐るべし。

「遅刻するから朝食はいらねぇ。」
そう言い捨てて、自室への階段をかけ登ると、背後から、

「坊ちゃん!朝食を抜くと身体に毒ですぞ。」
と、タマの声が響いた。

自室に戻ると、そのままクローゼットへ直行。
着ているスーツのポケットから財布や鍵を取り出しテーブルに置いていく。
すると、財布と一緒にさっきの1万円札とメモが出てきた。

その2つをじっと見つめたあと、1万円札は財布の1番取り出しやすいところに入れ、メモは細々に破り捨てる。

あいつの書く見慣れた文字列が細々に破れていくのを見ながら、ふと半年前のことを思い出す。

ババァからの突然の電話。
『半年ほど日本に戻ってこれるかしら。』

「どういう意味だよ。」
そう聞く俺に、ババァは淡々と言った。

「癌が見つかったの。手術をするから半年は会社を空けるわ。
その間、あなたに代行をお願いしたいの。」

あのどこまでも図太いババァが癌に犯された。
正直、ショックがデカくて数日考え込んだが、姉ちゃんからの電話でその心配も吹き飛んだ。

「癌って言っても良性の小さなものよ。私も一緒に病院に行ったから間違いない。でも、お母様はいつも働きすぎだから、この際病気を理由に少し休ませたいの。ドクターも日本トップの外科医に頼んであるから心配要らないわ。」

どうやら、身体を休めさせたい姉ちゃんと、俺をそろそろ日本に帰国させたいババァの思惑が絡んだ話らしい。
NYにいる親父もそれは分かってるようで、行ってこいと苦笑しながら頷いた。

その後、日本に帰国して直ぐに大きな仕事が舞い込んできた。
以前から取引していたフランスの老舗ホテルオーナーが、日本のホテルとの業務提携を望み、道明寺ホールディングスの楓ホテルを選んだのだ。

どちらのホテルも、顧客が富裕層の女性客が多いという事で、お互いのホテルを利用した旅行ツアーを組むなどメリットはかなり大きい。

この重要案件を任されたのが、営業一課と秘書課。
ホテルオーナーが視察のために日本に滞在する3ヶ月の間、大学生の娘も一緒に同行してくることになり急遽秘書課のヘルプも必要となったのだ。

ただ、50人近くいる秘書課の中でもフランス語が堪能で尚且つ娘と歳が近い奴はほとんどいない。
その中で、あの女は大学でフランス語を専攻していた事もあり、娘のお守り役として抜擢されたのだ。

ホテルの視察や食事会にはオーナーの娘も同行することが多く、自然とあの女との接点も増えた。
仕事は超が着くほど真面目。秘書課の女にしては珍しく地味。
業務の確実さやミスの少なさは、西田並かもしれない。

そんなあの女にも一つだけ意外な噂を耳にした。
『彼氏と同棲している。』
男っ気なんて微塵も感じさせない女なのに、学生時代から付き合っている男と同棲していると秘書課の女たちから聞いた。

女は見かけじゃ分かんねぇなと内心鼻で笑った次の月、クリスマスがやってきた。
ホテルオーナーの娘はフランスにいる彼氏にプレゼントを買いたいと女を連れ出し連日買い物三昧。

疲れ果てた女は西田に
「恋愛ごとは苦手分野なので疲れます。」
と、ボソッと愚痴をこぼした。

仕事で愚痴や弱音を漏らすのはこの女らしくねぇ。
だから思わず、俺もボソッと口を挟んだ。

「彼氏と同棲中なのに、苦手分野はねーだろ。」

すると、小さくクスッと笑ったあと
「私の場合、そういうキャラですから。」
と言い放った。

「あ?キャラ?」

「ええ、まぁ。」

言ってる意味が分からず西田に目配せすると、

「まぁ、秘書課の女性たちは色々大変なんですよね?」
と、あの鉄仮面西田までクスッと笑ってやがる。

「俺にも分かるように説明しろ。」

「大会社の秘書課に勤務していると言えば、少なからず男性が寄ってきます。
合コンなるものにも引っ張りだこですよね?
ですから、皆さん自分のキャラを作って演じているという訳です。」

「演じる?」

「そうです。牧野さんで言えば、長年付き合っている彼氏と同棲中。というキャラを演じているんです。
そうすれば行きたくないお誘いにも呼ばれないし、上司からのセクハラ予防にもなりますし。」

そう話す西田に、
「さすがです西田さん。」
と、にっこり笑う女。

そうしてあの女との仕事場での付き合いが半年を迎えた。




さすがに一睡もしていない寝不足はキツい。
昼休憩に30分だけ目を休めようとしたけれど、目を閉じれば昨夜の事が脳裏に浮かび眠るどころじゃない。

西田も体調を心配して
「二日酔いですか?今日は定時でお帰りください。」
と、心配気な表情。

ダメだ。
仕事になんねぇ。

俺は定時になると、オフィスに備え付けてあるクローゼットからラフな服装とキャップを取り出しそれに着替えた。
そして、西田には「ジムに寄ってから帰る」と言い残し会社を出る。

もちろん、ジムになんて行くつもりはねぇ。
会社を出た俺は、会社正面のエントランスが見渡せる場所の塀に寄りかかり、キャップを目深にかぶり、待つ。

待って、待って、待つこと1時間。
ようやく出てきた。
パンツスーツにグレーのコートを着たあの女がエントランスから出てきた。

俺は立ち上がり、そっと女の後を追う。
電車通勤か?
いや、駅に向かっている気配はない。

すると、1件の本屋に立ち寄る。
ビジネス書やフランス関連の本、料理レシピ本などサッと立ち読みしたあと、1冊の本を購入して店を出る。
その間も俺はゆっくりと付かず離れずの距離で女を追う。

そして、しばらく歩いたあと、地下鉄への階段を下りていこうとする女に、俺は声をかけた。

「おい、牧野。」
初めて名前を呼ぶ。

すると、振り向いた女が俺の顔を見てしばらく固まったあと、
「…せ、専務ですか?」
と、目を丸くして驚いている。

深く被ったキャップを少しだけ上げて、俺は言った。

「少し話がある。付いてこい。」

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