夕方。
一日の予定を終え、執務室へ戻ると、西田が静かに近づいてきた。
「司様、お伝えしたいことがございます」
「なんだ」
ネクタイを少し緩めながら椅子へ腰を下ろす。
「昨日、警察署にコートをお忘れになりましたか?」
そう言われて初めて思い出した。
偽物の男の取調べが終わり、刑事たちと話をしたあと、そのまま警察署を出た。
確かにコートを手にした記憶がない。
「あちらからご連絡がありまして、後で牧野刑事が邸まで届けてくださるそうです」
牧野。
その名前を聞いた瞬間、パソコンへ伸ばしかけた手が止まった。
ほんの一瞬。別に大した意味はない。
「私が警察署まで受け取りに参りましょうか」
「いや」
思わず即答していた。
西田がわずかに目を細める。
「届けると言っているなら、そのままでいい」
「承知いたしました。」
西田は小さく一礼して背中を向けたが、その背に向かって俺は言う。
「17時には仕事を終わらせる。だから、18時以降に来てくれと伝えろ。」
「……。」
振り返り、じっと俺を見つめる西田。
「な、なんだよ。」
「いえ、別に。」
そう言って、西田は明らかにゆっくりと手帳に何かを書き記したあと、そのまま部屋を出て行った。
静かになった執務室で、一人息をつく。
別に深い意味はない。
ここ数日、警察とのやり取りで予定が詰まっていた。
今日は少し早く切り上げて身体を休める。
ただ、それだけだ。
あの刑事が来るからではない。
自分にそう言い聞かせ、目の前の資料へ視線を落とした。
⸻
予定通りなら、17時には会社を出られるはずだった。
だが、現実はそううまくはいかない。
退社5分前。
デスクの内線ではなく、海外専用の回線が鳴った。
ニューヨーク支社だった。
開発中の案件で想定外のトラブルが発生したらしい。
説明は長く、要点が見えない。
「結論を先に言え。」
思わず声が低くなる。
腕時計を見る。
本来なら、もう車へ乗り込んでいる時間だ。
しかし電話は終わらない。
資料を確認し、数字を修正し、その場で判断を下していく。
ようやく話がまとまった頃には、時計の針は18時を少し回っていた。
受話器を置き、小さく息を吐く。
「……遅れたな。」
急いで上着を手に取り、執務室を出る。
エレベーターを降りると、西田がすでに待っていた。
「車の準備はできております。」
「ああ。」
短く答え、後部座席へ乗り込む。
車が静かに発進すると同時に、携帯電話を取り出し、邸へ電話をかけた。
数回のコールで、聞き慣れた声が出る。
「タマか。」
『はい、坊ちゃんどうされましたか。』
「今日、女刑事がくる予定になってるが」
「ええ。ちょうど今。お見えになりましたよ。」
俺は小さく息を吐いた。
「そのまま待っていてもらってくれ。」
「はい?」
「すぐ戻る。」
「かしこまりました。」
電話を切る。
別に急ぐ必要はない。
コートなら使用人に預けてもらえば済む話だ。
それでも、わざわざ邸まで来てもらった相手に、顔も合わせず帰すのは気が引ける。
礼くらいは直接言うべきだろう。
……特にそれ以上の意味はない。
そう自分に言い聞かせながら、バックミラー越しに運転手へ視線を向けた。
「少し急いでくれ。」
………………
玄関の車寄せに車が滑り込むと、使用人たちが一斉に頭を下げる。
「応接間でお待ちでございます。」
そのタマの一言だけ聞くと、俺は真っ直ぐ応接間へ向かった。
重厚な木製の扉の前で一度だけ呼吸を整え、ノックもせずに扉を開ける。
部屋の中央。
大きなソファに、女刑事が座っていた。
膝の上には鞄。
背筋は真っ直ぐ伸び、部屋を見回すこともなく静かに待っている。
俺に気付くと、刑事はゆっくり立ち上がり、
「お疲れ様です。」
仕事の時と変わらない、淡々とした口調。
「お待たせしました。」
こちらもそれに淡々と答える。
刑事は隣に置いてあったコートを持ち上げた。
「こちら、お忘れ物です。」
「悪い。」
受け取ったコートをコート掛けに掛ける。
「わざわざ届けてもらわなくてもよかった。」
すると刑事は、少しだけ苦笑したあと、
「私もそう思いました。」と言う。
「……。」
「上司の命令ですので。」
思わず笑いそうになる。
相変わらず遠慮がない。
「上司のパシリか。」
「公務員なんてそんなもんですよ。」
その言葉に思わずクスッと笑ってしまうと、刑事も小さく笑う。
一瞬だけ、警察署で見せる堅い表情ではない姿が見られたようで、ドキッとする。
「何か事件のことでお話でもあるのかと思って待っていたのですが。」
「あ?」
俺は刑事の正面のソファーに腰を下ろす。
「違ったんですか?坊ちゃんが帰るまでお待ち下さいと言われたので、なにか事件のことについてまだお話があるのかと、」
「いや……。」
返事に詰まる。
何と言えばいい。
待たせるほどの深い意味はなかったから。
「まぁ、特に用件はない。」
「そうでしたか。」
すると今度は刑事が身を乗り出して口を開いた。
「実は、一つだけお聞きしたいことがあります。」
柔らかい空気が一瞬で消え、刑事の顔になる。
「何だ。」
「初めてこちらへ伺って、お話を聞かせていただいた時のことです。
あの日、私が店に未成年者が出入りしていた可能性についてお話しした時……。」
そこまで聞いて思い出す。
内偵捜査後に俺の名前があがり、事情を聞きたいと上司と二人でここへ来た日のことだ。
「その瞬間だけ、道明寺さんの表情が変わりました。」
「……。」
「ほんの一瞬でした。」
そこまで見ていたのか。
「あれは事件とは別に、何か思い当たることがあったからではありませんか。」
刑事の目は真っ直ぐだった。
疑っているというより、刑事としての自分の勘に絶対の自信を持っている表情。
俺は小さく息を吐いた。
「よく見てるな。」
「職業柄です。」
「俺にやましいことは一つもない。ただ、未成年者という言葉を聞いた瞬間、一人だけ頭に浮かんだ男がいた。」
「男?」
「ああ。」
「俺のダチだ。西門総二郎。」
その名前を口にした瞬間、牧野の表情がわずかに強張った。
「西門総二郎。F4と呼ばれている一人ですね。」
「あいつが二か月くらい前に言ってたんだ。」
俺はその時の記憶を思い出しながら言った。
「『最近、熟女路線をやめて若い子と遊んでる。人生最初の男が俺っていうのも悪くねぇだろ』ってな。」
総二郎の言葉をそのまま真似て伝えると、案の定刑事の表情が曇る。
「どう聞いても誤解するだろ?」
「誤解というか、女性が聞いて気持ちのいいセリフではないですね。」
「総二郎も六本木の街にはよく顔を出しているはずだから、警察から未成年者って言葉を聞いた時、一瞬だけ嫌な予感がした。」
刑事は何も言わず、大きく頷いた。
「六本木、未成年者、と聞いて西門さんのことが頭に浮かんだんですね。」
「ああ。でも、結果は杞憂だった。」
「本人に確認したんですか?」
「ああ。すぐに問い詰めた。確かに若い女に熱をあげているらしいが、相手は二十一歳、同じ茶道の流派にいるジジイの孫娘だそうだ。」
「へぇ。」
「まぁ、あいつらはそんなもんだ。口ではチャラいこと言っても、結局手堅い恋愛を選ぶし、超えちゃいけない一線はわきまえてる。心配して損したな。」
「ふふっ、事件性がなくてこちらも安心しました。」
そう言って、持ってきた鞄に手帳類をしまい込み、最後にまっすぐ俺を見て刑事が言った。
「今回の件で、美作氏と花沢氏にも捜査のご協力をお願いしましたが、お二人とも言っておられました。司に限って今回のような事件を起こすことは絶対にないと。私もここ数日関わらせて頂いてそう確信しています。この度は本当に捜査へのご協力ありがとうございました。では、これで。」
一礼すると、そのまま応接間を後にした。
事件は終わった。
これで、もうこの女刑事と顔を合わせることもないだろう。
…その時は本当にそう思っていた。
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