心愛のベビーシッターを……と自分から引き受けたはいいが、現実はそんな甘いものじゃないと早くも3日目で後悔している。
3歳児は怪物だ。
自分ではほとんど何も出来ないくせに、口だけは達者で、あれをして、これをしてと俺にせがんでくる。
疲れたからと少しでも目を離せば、影でコソコソと悪さをして、俺の仕事のファイルはあっという間にクレヨンで塗りつぶされる始末だ。
「おとなしいのは、食ってる時と寝てる時ぐらいだな。」
と、溜息をつきながらつぶやく俺に、
「だから、大変だって言ったでしょ。」
と、鼻で笑う姉ちゃんと、困った顔をする義兄。
「申し訳ないね、司くん。」
「いえいえ、俺から提案したことですから。」
「でも、このままだと司くんの仕事が手につかないだろ?」
「まぁ……」
いくらリモートワークだからと言っても、このままでは心愛を見るのに精一杯だ。
すると、
「だから私も考えたのよ。」
と、姉ちゃんが言う。
「キンダー(幼稚園)に入るにはまだ半年早いんだけど、プリスクールなら空きがあるから入れるそうなの。心愛にもその事を昨日話してみたら……」
「そしたら?」
「司が送り迎えするなら行ってもいいって。」
「チッ、あいつ」
そういうところは母親そっくりだ。俺をパシリに使いやがるなんて100年早い。
「どうする?このまま昼間中ずっと付きまとわれるのがいい?それとも送り迎えをしなくちゃいけないけど、昼間はプリスクールに行かせる?」
考えるまでもない。どうせ、プリスクールに行ったって、帰ってきたら俺に付きまとうのだろうから。
「仕方ねぇーな。明日、子供が乗りやすそうな車、レンタルしてくるか。」
言葉では愚痴りながらも、心愛とドライブする姿を想像して顔が緩む。
そんな俺を見て姉ちゃんが、
「この状況を楽しめるなんて、あんたも結構物好きね。」
と、呆れたように言った。
………………
それから心愛のプリスクール通いが始まった。
かなりの人見知りで、最初は先生や友達にも全然懐かなかったが、1週間を過ぎたあたりからだいぶ慣れたようで泣かずに行っている。
「今日も一日頑張ってこれたら、帰りショッピングモールで好きな物買ってやる。」
「ママがダメって言うグミでもいい?」
「もちろん。」
そんな会話をしながら毎日プレスクールの前でハグをして別れるのが俺と心愛の日課になった。
そんなある日、心愛がプレスクールへ行っている間、以前仕事で世話になったロサンゼルスの会社の社長と会食する予定が入っていた。
仕事の打ち合わせを兼ねながらの食事は2時間以上にもなり、時計を見ると午後3時。
今日は姉ちゃんに「心愛の迎えには行けない」と言ってあるのだが、この時間になるといつもプリスクールまで車を走らせているからか、なんだか落ち着かない。
マナーモードにしておいた携帯をチラリと見ると、着信が3件もある。オフ中の今、電話をかけてくる相手は思いつかない。
すると、1件は姉ちゃんからで、もう1件は義兄から。そして残りは知らない番号だ。
席を立ち、まずは姉ちゃんにかけると、直ぐに
「司っ!」と声が帰ってきた。
「どうした?」
「心愛がプレスクールで怪我をしたの。」
「あ?」
「お友達と遊んでて、転んだ時にテーブルの角に顔をぶつけて瞼の上がパックリ。」
「マジかよっ。それで、心愛は?」
「直ぐに病院に連れて行って4針塗ってきたの。今、家で寝てるわ。」
「ってことは姉ちゃんが付いてるのか?」
「そう。ねぇ、司。何時頃帰ってくる?私、5時半から会議があって一度会社に顔を出さなきゃならないの。心愛を1人にしておくことも出来ないし、旦那も出張だし。以前お世話になったベビーシッターの花江さんに連絡したら、快く来て下さるって。心愛は花江さんとうちでお留守番してるから、司が戻ったら花江さんと交代して待っててくれる?」
「ああ、わかった。俺も1時間くらいで戻る。」
「私も遅くならないわ。それまで、お願いします。」
姉ちゃんからの電話を切り、そのほかの2件の電話を確かめると、1件は義兄からでもう1件はプレスクールからのものだった。どちらも心愛の件についてで、出張で離れている義兄からは「申し訳ない」と留守電も残されていた。
子供を持つってのは、想像以上に大変なことだ。予期せぬ事の連続で、両親2人で助け合ってもそれでも足りないのだ。
俺には到底できることじゃない……そんなことを思いながらも、心愛の怪我が気になり、車を飛ばして姉の邸宅へと走った。
………………
邸宅に戻ると、リビングのソファでブランケットに包まれて眠る心愛が目に入る。その瞼の上には白いガーゼのようなものが張り付いていて小さな顔には痛々しい。
そして、キッチンでは白髪の恰幅のいい女性がなにやら料理をしていた。
俺に気づき、直ぐにエプロンを取り、
「初めまして、大山花江と申します。奥様からベビーシッターを頼まれ参りました。」と頭を下げる。
「あ、姉から聞いています。急に呼び出して、すみません。」
と、伝えながらも、俺の視線は花江さんというベビーシッターの後ろに大人しく立つ男の子に視線が行く。
すると、花江さんもそれに気づいたのか、
「あ、この子は私が毎日預かっているお宅の息子さんです。今日も預かっていたんですが、急にこちらの奥様から心愛ちゃんを頼まれまして、一緒に連れて来てもいいのであれば……と、お引き受けしました。」
「あー、そういう事ですか。」
確か姉ちゃんも言っていた。有能なベビーシッターに出会ったが、先客がいて心愛を預けることが出来なかったと。この男の子は、その先客の息子ということか。
「あのぉ、奥様も直ぐに戻られるとお聞きしましたが、心愛ちゃんがお腹が空いたとおしゃっていたので、勝手にと気が引けたのですが、冷蔵庫にあったものでスープを作らせて頂きました。申し訳ありません。」
「いえ、とんでもない。でも、」
そう言って心愛に視線を移すと、花江さんも心愛を見てクスッと笑いながら、
「寝てしまいました。」
と言う。
「あいつ、一度寝たらなかなか起きないんで。」
「そうですか。もしかしたら、このスープは朝ごはんになるかもしれませんね。」
テンポよく会話が弾むこの女性は、姉ちゃんが言うようにとても感じがいい。留守を頼むくらいだから、信頼もしているのだろう。
すると、俺の携帯が短くなった。姉ちゃんだ。
「あと30分で家に着くわ。」と。
「もうすぐ、姉が帰ってくるそうです。」
「そうですか、では、私たちは片付けたら失礼します。」
「はい、ありがとうございました。」
そう伝え、花江さんと男の子が帰る準備をしている間に、俺は心愛の寝顔を見たあと、いい香りに引き寄せられるようにキッチンへと向かった。
そこにはポトフだろうか、たくさんの大きめな野菜と、厚切りのベーコンが入ったスープが用意されている。たっぷりの量もあり、夜食べても朝ごはんまで残る程だ。
すると、
「では、失礼致します。」
と、花江さんの声がして、振り向く。
深く頭を下げる花江さんと、その横でニコッと笑いながらぺこりとする男の子。
心愛よりも少し歳上のその子は手足が長くてなかなかのハンサムボーイだ。その子に向かって、軽く手を振ると、その子も小さな手を振り返してくる。
その時にふと気付いた。
「花江さん、あなたたちの夕食は?」
「えっ?私たちの夕食ですか?」
「ええ、もしかしてこれから帰って作るとか?」
「……まぁ、いつもはこの子の家で奥様が帰ってくるのを料理をして待つのですが、今日はもうこの時間なので、途中で何か食べて帰ろうか?」
そう言って花江さんが男の子に話すと、
「ヤッター‼️」と喜ぶ。
そんな男の子に俺は言っていた。
「何が食いたい?」
「え?」
「せっかくここまで来てくれたんだから、お礼に食いたいものご馳走してやる。それに、あの量のスープはみんなで食べないと食べきれねーよ。」
すると、
「ピザ。」
と、小さな声が帰ってきた。
「ピザ❓ピザなんかでいーのかよ。もっと高いものでもいーぞ。」
「ピザがいいよ。だって、うちのママ、アメリカのピザはカロリーが高すぎるからダメって食べさせてくれないんだもん。」
口を尖らせる男の子に、俺は笑いながら言った。
「ママには内緒だぞ。今日はお腹いっぱい食わせてやる。」
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コメント
更新があるとキャ!って思いながら楽しませて頂いてます。
ドキドキで胸キュンのお話いつもありがとうございます。
海外でのお仕事お疲れ様でした。またその経験が反映されて胸キュンのお話を生み出して下さい。
連載、続けてくれてありがとうございます☺️お仕事だったのですね。
毎回、楽しみに拝読してます♥️