4年後。
「司、小雪のお昼寝バッグ持った?」
「ああ、もう車に積んだ。」
「帰りは私が迎えに行くって先生に伝えてね。」
「分かった。こはる、そろそろ時間だぞ。」
「あっ、遅刻しちゃう!じゃあ、行ってくるね。」
パタパタとリビングを駆け回り、俺と小雪の頬にチュッとキスをした後、出勤する妻。
それを見送ったあと、俺は小雪の身支度を済ませ、幼稚園に送り届け、自分も出勤する。
今から4年前、俺たちの間に一人娘の小雪が生まれ、3人家族となった。
マタニティーブルーや産後の育児でこはるにストレスがかかり耳の状態が悪化するのでは……と内心不安に思っていた俺だが、その不安は的中せず、逆に思いもしないことが起こった。
それは出産して数時間後の事だった。生まれてまもない小雪と出産の疲れで眠るこはる。母子が並んで寝ている時に、急に小雪が大きな声で泣き出した。
あまりにも大きな声に、そばにいた俺はあたふたと動揺しまくりだったが、こはるは直ぐに起きて小雪を抱き母乳を吸わせている。
その光景をうっとり眺めていると、こはるが俺の顔をまじまじと見つめてきた。
「どうした?」
「……ううん。」
小さく首を振って否定するが、こはるの表情はなぜか険しい。
「こはる?」
「司、こっち側から話して。」
「あ?」
小雪を起こさないように……という意味なのかと思い、こはるの右側に移動して、
「ここならいいのか?」
と聞くと、
こはるは、
「……やっぱり。」
と、驚いた顔で俺を見る。
こはるが何を言いたいのか掴めない俺に、妻は信じられない……という顔で言った。
「聞こえるの。」
「ん?」
「音が聞こえるのっ!右耳から司の声が聞こえる。」
耳が聞こえなくなってから1年半。その間、どんな治療をしても効果はなかったが、なぜ今ここで?と驚愕する。
「私も分からないっ。でも、今、小雪が大きな声で泣いたでしょ。その時に、パーンと何かが弾けたような感じがして。」
そんなことが医学的に説明出来るのだろうか。でも、その日からこはるの耳は正常に聞こえるようになったのだ。
そうしてなんの障害もなく育児に励み、時が経ち、小雪が幼稚舎に入る頃、こはるが俺に言った。
「また、仕事を始めたいの。」
以前は外科のエースとして活躍していたこはる。耳のせいで第一線から退いていたものの、医師としての志は忘れていず、いつも医療雑誌や論文などに目を通していたのを知っている。
だから、こはるのその言葉に俺は迷わず、
「好きにしていいぞ。」
と言った。
てっきり、以前働いていた大学病院に復帰するものだと思っていたのに、こはるが選んだ再就職先は、なんと大学講師というものだった。
「大学の講師?」
「そう。恩師の教授から、医科大で臨床医学の講師をしないかって誘われて。病院の現場に出るのはブランクがあるし、小雪もまだ小さいから夜勤とかも難しいし。」
「おまえはそれでいいのかよ。」
「色々考えたんだけど、今の私にとっては仕事よりも家族との時間が大事なの。だから、家庭と仕事のバランスが取れる講師の仕事が私には向いてると思って。」
現場一筋でやってきたこはるが、教える側になれるのか……と不安はあったが、実際に働き始めてみると、週4回の講師の仕事は生活にメリハリをつけ、尚且つ若い学生とのやり取りも楽しいようで、毎日生き生きとしている。
病院で働いていた時のような不規則で不健康な生活とは真逆。早寝早起きで仕事のある日は俺よりも先に邸を出て行く。
そういう訳で、俺もすっかり子育てに慣れてしまった。こはるが仕事の日は俺が幼稚園へ送り届けるし、急に帰りが遅くなると言う日は、幼稚園に迎えに行き在宅ワーク。
義父母もそんな俺たちに協力的で、休日は小雪を連れて遊びに出かけてくれるので、ゆっくりと夫婦水入らずで過ごすことも出来る。
そんな幸せな日々を過ごしている俺たち。
今日は金曜日だ。
明日は仕事も休みでこはるとゆっくり過ごすことが出来る……と思った矢先、オフィスにいる俺の携帯が鳴った。
「ごめん。今日の夜、少し出かけてきてもいい?」
こはるから珍しいお願い。
「誰とどこに?」
相変わらず妻のことになると余裕がない俺。
「本田先生に借りてた医学書を返しに行きたくて連絡したら、今担当してる患者さんの経過について意見を聞きたいって言われて。」
本田先生とはこはるが以前働いていた病棟の先輩ドクターだ。でも、俺にとっては因縁の相手。
こはると別居寸前まで行った時、本田ドクターに
「笹倉の為にも離婚した方がいい。俺は笹倉が好きだ。」と喧嘩を吹っかけられた。
後にそれは嘘だったと聞いたし、こはるとはただの仲の良い同僚だということは分かっているけれど……、
「アイツかよっ。」
と、憎まれ口が出てしまう。
「先輩に対してアイツとか言わないの。」
「2人で会うのか?」
「フフ……相変わらず変な心配して。安心して、奥さんも一緒だから。」
本田ドクターは去年、同じ病棟の看護師と結婚した。今は1男の父親だ。
「小雪が寝る前には帰るね。」
「おう。電話くれたら迎えに行く。」
「うん。」
そう言って電話を切った時、オフィスの扉がコンコンと鳴った。
「はい。」
「お客様がお見えです。」
秘書の声に、
「通してくれ。」
と答えると、
扉が開き、アタッシュケースを2つ持った老人の紳士が現れた。
「ご無沙汰しております、司様。」
「どうも、お呼び立てして申し訳ありません。」
「いえいえ、ちょうど良い品が入ったのでお電話しようかと思っていたところです。」
そう言ってテーブルにアタッシュケースを置くと、ゆっくりと鍵を開ける老人。
「今回はピンクダイヤのお品をお持ちしました。」
光り輝くジュエリーたち。
この老人は、長年俺が贔屓にしている宝石商で、持ってくるものはいつも一等級品だ。
「今回も奥様へのプレゼントでしょうか?」
「ああ、結婚記念日に贈りたい。」
そう伝えると、
「承知致しました。」
と、宝石商が頷く。
そして、デスクの上にある家族写真を眺めて、
「本当に幸せな奥様ですね。」
と、にっこりと笑った。
Fin
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