最近の俺たちは、まるで新婚のような暮らしをしている。
別々だった寝室もいつしか一緒になり、仕事中以外は常に一緒。
どこに行くにも2人で……が当たり前になった。
そして今日は、月に一度のこはるの検診日。午後から仕事の休みを取って俺も一緒に病院に付いてきた。
「わざわざ来なくてもいいのに。」
「治療の経過も知りてーし。」
「……変わらないけど。」
こはるの耳の状態は相変わらずだ。耳鳴りはほとんど無くなったようだが、音は聞こえていない。半年以上その状態で、本人よりも俺の方がヤキモキしている。
大学病院の待合室は午後だというのに患者で溢れかえっていた。それでも、予約時間ぴったりに名前が呼ばれて診察室に入ると、50代くらいの医師が椅子に座っていた。
「お願いします。」
と、こはるがぺこりと頭を下げると、
「どう?最近は。」
と、その医師が顔を上げて俺たちを見る。
その医師の顔に俺は見覚えがあった。思わず、
「あっ、」と小さく声が漏れると、
「あー、今日は旦那さんも一緒ですね。どうも、主治医の柳田です。」
と、ニコリと笑う医師。
その柳田というドクターに会うのはこれで二回目だ。一回目は、俺がこはるに差し入れのうなぎを届けたあの日。夜間ロビーのベンチに腰掛けていると、俺に声をかけてきてこはるの病棟へ電話を繋いでくれたドクターがこの柳田先生だった。
「あの時はどうも。」
俺がそう言うと、ドクターも分かったのか、
「いえいえ。」
と、軽く手を振る。
そんな俺たちを見て、こはるが、
「ん?どこかで会ったことありました?」
と、不思議そうにドクターに聞くが、
「まぁ、ちょっとね。……さぁ、それでは少し耳を見せてもらうよ。薬は継続して飲んでるね?」
と、柳田先生は誤魔化すかのように診察に入った。
こはるの診察は20分ほどで終わった。先月とほぼ変わらない結果。正直、仕事も辞めたし私生活でのストレスも減っているはずなのに、改善の兆しが見えない事に俺はかなり落胆する。
けれど、本人はさほど落ち込む様子もなく、
「また来月お願いします。」
と明るく言い、診察室を出る。
そして、
「会計まで少し待つから、その間に病棟に顔だけ出してくるね。すぐ戻るから、待ってて。」
と言って、以前働いていた外科病棟に向かった。
「ふぅーーー。」
こはるが居なくなって俺は小さくため息を着く。
落胆してる様子はこはるには見せたくない。
すると、背後から
「道明寺さん。」
と、名前を呼ばれた。
振り向くと、先程診察に当たってくれたドクター。
「柳田先生っ?」
「こはるさんは?」
「あー、外科病棟に挨拶に行きました。何かありましたか?」
「いえ、これから耳鼻科の病棟で午後の回診なので、上がろうとしてたところです。……少し、お話いいですか?」
そう言って柳田ドクターが奥のほうに見えている飲み物の自動販売機の方を指さす。
「……はい。」
俺はそう答えて、ドクターの後を追った。
………………
缶コーヒーを手に、少し奥まった通路のベンチに並んで腰をかける。
「こはるさんの表情がだいぶ明るくなりましたね。」
「そうですか?それは良かった。」
「実は僕、こはるさんの学生時代に大学で教えていたんですよ。」
「えっ?という事は、こはるは教え子ですか?」
「そうです。3年前にこの病院に復帰するまでは長い間大学で教鞭を執ってまして、その中でもこはるさんほど優秀な教え子はいませんでした。」
「こはるが聞いたら喜ぶと思います。」
お互いフフっと笑いあったあと、ドクターが続けた。
「そんな彼女が半年前に僕のところに診察に来た時、僕は本当に驚きました。」
「……?」
「明るくて真っ直ぐでいつもキラキラしていた彼女が、眉間に皺を寄せ目の下にくまを作りイライラしたようにせっかちに話すんです。」
「…………」
「外科という現場は男にとっても過酷な場所ですからこはるさんに相当な無理がかかっているのでは……と思いましたが、話を聞くうちに、そうでは無いということがわかりまして。」
「と言うと?」
「こはるさんを苦しめているのは仕事ではなく、家庭。旦那さんだということが何となく分かりましてね。」
その話に、返す言葉もなく俯く俺。すると、柳田ドクターが慌てたように、
「いやいや、誤解しないでください。僕は責めるつもりで言った訳じゃなくて。」
と、俺の肩に手を置く。
「家庭の事情はそれぞれですから、いくら医師だからといって口を挟むべきではありませんから。でも、あんなにキラキラしていた彼女がこんな風になってしまうのか……と顔も見た事がない彼女の旦那さんを恨んだりして、アハハハ。」
そう言って笑ったあと、ドクターは真面目な顔で言った。
「そして、いよいよ彼女の耳が聞こえなくなった。医師というよりは、教え子として放っておくことが出来なくて、次に診察に来たら彼女に言おうと思ってたんです。そんなに辛いなら、結婚生活をやめたらいいって。」
「…………。」
「そんな時、深夜のロビーであなたにお会いしました。勝手に想像していた僕のイメージとは違ってね、なんというか、彼女を大切にしているっていう雰囲気がとても伝わってきて。まぁ、僕から見たら好青年だった訳ですよ。それからしばらくして、こはるさんが仕事を辞めると聞いた時、あー、良かったなぁと思いました。」
「良かった……ですか?」
「ええ。仕事ではなく、家庭を選んだんだと。」
家庭を……。
本当にそうだろうか。
家庭を選んだのではなく、仕事を選べなくしてしまったのでは。
「俺がこはるから、仕事を奪ったんです。」
そうぽつりと呟くと、
柳田ドクターはフフっと笑い言った。
「こはるさんが仕事最後の日に僕に会いに来てくれました。その時言ってましたよ。膿を持ったまま縫合しようとしてもまた感染してヂクヂクと痛む。だから、最後まで膿を出し切って、もう痛むのは終わりにしたいって。仕事の話かと思いながら聞いていましたけど、最後に彼女言ったんです。相当痛いと思うけど、逃げないでぶつかってきます、って。」
「こはるが、そんなこと……」
「やっぱり彼女は賢明な女性ですね。この先人生はまだまだ続きます。でも、その時その時に、ちゃんと正しい道を選んでこないと、行き着く先のゴールは180度変わりますから。こはるさんはちゃんと今選ぶべき選択をしたのだなぁと思います。」
今選ぶべき選択。
こはるは最後の賭けだったとしても、俺と向き合う事を選んでくれたのだろうか。
「耳の治療は焦らず行きましょう。必ず治りますから。」
「はい、よろしくお願いします。」
………………
ロビーに戻ると、こはるが座っていた。
俺の顔を見るなり、
「どこに行ってたの?」
と、怒る。
「コーヒー飲んでた。」
「1人で?」
「……ああ。」
そう答えると、こはるは俺を睨みながら言う。
「私も喉乾いた。どこかで美味しいコーヒーが飲みたい。」
「OK、今日は午後から仕事キャンセルしてきたから、こはるが行きたいところに全部付き合ってやる。」
立ち上がり、並んで病院の出口へと向かう。
あと何回、診察に来ることになるのだろうか。
1年後、いや、もしかしたら3年後も来てるかもしれない。
「来月も一緒に来ようか?」
「ダメ。仕事サボったらパパに怒られるよ。」
「婿は辛いな。」
「なら、婿やめる?」
「やめねーよ。そんな選択肢はないっ。」
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