こはるが仕事をやめて1ヶ月がたった。
もともと、活発に出歩くタイプでもないし、仲の良い友達が沢山いる訳でもない。
だから、この1ヶ月ほぼ邸の中だけで過ごしていると言ってもおかしくない。
今までバリバリ働いていたから、さぞかし退屈で憂鬱なのでは…と思ったが、見た感じ意外に楽しそうだ。
毎日慣れないながらも料理をして、時にはクッキーやマフィンまでシェフから教わり作っている。
初めの頃のぐちゃぐちゃな目玉焼きはもう食卓には出ないところを見ると、腕はかなり上達したようだ。
本を読んだり庭を散歩したりジムで汗を流したり、リラックスしているこはるを見るとこういう生活も悪くないと思う反面、キャリアウーマンだったこはるを邸の中に閉じ込めてしまっているような気がして後ろめたさも感じる。
こはるは満足しているのか?仕事を辞めたことに後悔していないのか?
そんなある日、義父からNYへの出張に同行して欲しいと話があった。新しく購入を考えているオフィスビルを視察するためだ。約5日間の日程で最終日には経済界のパーティーも予定されている。
その話があってから、俺はずっと同じことを考えている。
『気分転換にこはるも連れていこうか』
『こはるにとって旅行は久しぶりだろう』
『邸から出て買い物でも楽しめばいい』
2日ほど悶々と考え、こはるのためになれば…と思ったりもしたが、結局そうじゃないことに気づく。
俺が、こはると一緒に居たいのだ。
朝起きればこはるが「おはよう」と言い、仕事から帰ってくればこはるが「おかえり」という生活が1ヶ月続き、すっかり俺はこはるが居ないとダメな人間になっている。
一緒にいれば険悪なムードになり、口を開けば喧嘩ばかりしていた数ヶ月前とは大違いだ。
今ではどこにいてもこはるを目で追ってしまい、まるで新婚時代に戻ったかのよう。
こはるのためなんかじゃなく、自分のために、思い切って俺は言った。
「来週からNYに出張に行く。……こはるも来るか?」
「…………。」
朝食のパンを口に運びかけて、こはるは無言のまま固まった。
だから、
「邸にばかり居たら息も詰まるだろ。だから、気分転換にと思って言っただけで、おまえが必要ないなら、」
と、慌てて付け足すように言うと、こはるは俺の言葉を遮るようにして言った。
「ニューヨークまでフライト時間はどのくらい?」
「あ?えーと、プライベートジェットで行くから、8時間くらいか…」
「8時間ね…分かった。暇つぶしの本でも買っておこうかな。」
そう言って再びパンを口に入れる。
そんなこはるを見ながら、俺はコーヒーカップを口に近づけてニヤけそうになる顔を隠した。
………………
夫にNY出張に誘われた。
こんなことは結婚して以来初めてのことだ。
もちろん今までは仕事が忙しかったし、誘われてもそんな余裕はなく断っていたに違いないけれど、今は時間がいっぱいある。
NYは小さな頃はよく両親と行っていた。セントラルパークで散歩をしたり、マンハッタンの五番街にあるレストランで食事をしたり、ジャズ好きな父に連れられて大人の雰囲気のバーにも行った。
そんな懐かしい思い出が蘇り、今回は時間が許す限りNYを堪能してこようと荷造りしながらも自然と鼻歌が出てしまう。
カジュアルな服の他にも、一応フォーマルなドレスも一着スーツケースに入れた。そして、それに合うジュエリーも…と思い、クローゼットの中のジュエリーコーナーを見回すと、1番手前にある箱が目に入った。
これは確か数ヶ月前に夫が出張に行った際、買ってきたジュエリー。カード会社から12億の支払いメールが来ていたから記憶にある。
その箱を開けると、初めて見た時にもその美しさに驚いたけれど、青みがかったアレキサンドライトのネックレスが眩く光っていた。
夫がどこで買ってきたものなのかは分からない。そして、私のために買ったのか、それとも明細書には2点とあったから、誰かほかの人のために買った時におまけとして私にも買ったのか…。
少し前の私なら、ネガティブな思考に引き戻されてこの箱をクローゼットの中に戻していただろう。けれど、私は少しだけ考えて、
これをスーツケースの中に入れた。
………………
NYに着いてまず初めに驚いたことはNYにある楓ホテルの豪華さだ。
義母のホテルは世界各国にあるけれど、ここNYのものは美しく品があり、世界中のセレブたちに愛されている。
そのホテルの27階に夫のプライベートスイートルームがある。話では聞いていたけれど、私が泊まるのは初めて。
「物凄い部屋だぞ。」
興奮しながらそう話す父に、
「泊まったことあるの?」
と聞くと、
「司くんとNYに出張に来る時は使わせてもらってる。」
と得意げに言う。
「あーー、だからなんだ。NYの出張の時はいつも一緒に行くでしょ。」
「別にそういう訳じゃないぞ。」
「いやいや、怪しい。パパは絶対その部屋に泊まりたいから誘ってるのよね?」
そんなことを言い合う私たち親子を見ながら、夫は目を細めて、
「出張以外では使わないから、部屋の掃除も兼ねてこっちとしても有難い。」と笑う。
そしていざそのスイートルームに入ると、想像以上の豪華さに腰を抜かす。
部屋数はなんと12部屋。そのうちベッドルームは8部屋もあり、毎日寝る場所を変えても余るくらいだ。
「どの部屋も好きに使っていい。」
夫にそう言われ、私はパステルグリーンを基調とした淡い雰囲気のお部屋を選びNYでの1週間が始まった。
初めの3日間は父と夫は朝早くから仕事に出かけ、昼過ぎに帰ってきたと思ったら、スイートルームの会議室で仕事の打ち合わせをし、またそれぞれ部屋を出ていく。
夜帰ってきてもパソコンに向かい書類を作ったり、日本と電話会議をしたりと、かなりハードそうだ。
一方、私ときたら一日中オフなので、ゆっくり美術館を見て回ったり、カフェで読書をしたり。日本にいると時々悩まされていた耳鳴りもNYにいる間はほとんど無い。
相変わらず左耳の聴力は回復していないけれど、それでもいいかーと思えるほど心は穏やかだ。
なぜ今まで、もっと自分のために時間を費やしてこなかったのだろう。人のためと思い医者という仕事に没頭してきたけれど、1番労わってあげるべきだったのは自分の身体だったのだと改めて思う。
明日は久々にショッピングでも楽しもうか。今履いているシューズも何年前に買ったものか覚えていない。もう古いのは捨てて、セントラルパークを散歩する用に新しいシューズとつばが広い帽子を見に行こう。
そう計画して、ホテルの部屋のベッドサイドの電気を消そうとした時、部屋の扉がコンコンと鳴った。
「…はい。」
「こはる、少しいいか?」
夫の声に、私は慌ててベッドを出て扉を少しだけ開けた。
「寝てたか?」
「ううん。どうかした?」
「明日、おまえの予定は?」
「靴と帽子を買おうと思って、ショッピングに行くつもり。」
そう答えると、夫が意外なことを言った。
「夕方から時間が空いた。一緒に食事に行こう。」
「え?仕事は?」
「早く終わらせる。せっかくNYに来たんだから、名物のビッグバーガーでも食べに行くぞ。」
食事と言うからどこかのレストランかと思えば、夫からビッグバーガーという似合わない言葉が出てきて笑える。
「パパは?さすがにビッグバーガーは食べないと思うけど。」
そう私が笑いながら言うと、
「お義父さんは上手く理由をつけて撤く。」
と、堂々と言い放つ夫。
「プッ…後で怒られるかもよ?」
「デートしてきたって言えば、何も言われねーだろ。」
「っ!」
デートなんて言われて思わず声が詰まる。
それなのに夫は平然としたまま
「明日17時にバーグドルフ・グッドマンで待ち合わせな。」
と言って、私の部屋を後にした。

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