邸に入ると、こんな時間にも関わらずたくさんの使用人たちが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
「ただいま。……遅くなりました。」
申し訳なく思い頭を下げると、一斉に使用人たちも頭を下げる。
本当に申し訳ない。グダグダと街を歩き回り帰るのを渋っていたが為に、みんなに心配をかけてしまった。
「さぁ、部屋で着替えなさい。熱いお茶をすぐに用意して持っていくわ。」
私の背中を押してそう言った母は、夫にも、
「司さんもゆっくり休んで。」
と、微笑む。
「先にお義父さんに挨拶してきます。」
「そう?じゃあ、司さんのお茶は主人の書斎に運んでもらうわね。」
「ありがとうございます。」
夫は父の書斎へ行くため私たちの部屋とは反対方向の廊下へと進んでいく。その後ろ姿を見ながら私は、さっきまでの光景が脳裏に浮かび心臓がドキドキと鳴り響く。
部屋に戻り、奥のクローゼットで着替えを済ませてリビングに行くと、母がティーカップに紅茶を注いでいるところだった。
「安眠効果がある茶葉をブレンドしてもらったわよ。」
「……ごめんね、お母さん。」
「遅くなるなら連絡して欲しかったわ。」
「そうじゃなくて。……仕事辞めちゃったこと。」
私がそう言うと、母は私の顔をしばらくじっと見つめたあと大粒の涙を流しはじめた。
「あなたが謝る必要は何もないわ。私は母親失格ね。耳がそんなに悪くなるまで一人で色々抱え込んでた事を気づいてあげられなくてごめんなさい。もっとあなたのそばに居てあげていれば…」
「ううん、そんなことっ、」
「これからは寝たい時に寝て、食べたい時に食べて、したい事だけをする。そんな風にゆっくりと自由に過ごして頂戴。今まで頑張ってきたんだから、それくらい羽を伸ばしても誰にも文句は言わせないわ。」
母がそう言って、私の身体を優しく包み込む。
その温かさは、仕事を辞めたことで両親を失望させた……という不安や緊張から解き放してくれる。
と、その時、部屋の扉がコンコンと優しく鳴った。
「どうぞ。」
母がそう声をかけると、ゆっくり開いたドアから夫が姿を見せた。
抱き合う私たちを見て、
「話がまだなら、」と、部屋を出ていこうとする。
「いーのよ、司さん入って。私はこれで失礼するわ。司さんも急ぎの仕事や出張続きでここに帰ってくるのは久しぶりでしょ?やっぱりホテルよりも自分の家の方が落ち着くわよね。ゆっくり休んで頂戴。」
不仲が原因で別居中だとは知らない母はそう言って部屋を出ていく。2人残された私たちは、お互いをチラッと見たあと、どちらともなく向かい合うソファーに腰を下ろした。
「お、お茶でも飲む?」
「お、おう。」
自分たちの部屋なのに、ここで2人きりになるのは3週間ぶりだ。
母が持ってきてくれたお茶を注ぎ、
「安眠効果があるみたい。」と、夫の前に置くと、
「サンキュー。」と小さく言ってそれを飲む。今日の夫の服装はスーツではなくラフなシャツとジーンズだ。
きっと道明寺邸でくつろいでいる中、呼び出されてここに来たに違いない。時計を見るともう0時過ぎ。普段ならベッドに入っているだろう時間だ。
申し訳なく思い、
「ごめんね。」
そう呟くと、
「無事ならそれでいい。」
と、お茶のカップを見つめながら即答する夫。
その素っ気ない言葉でさえ甘く聞こえてしまうのはやはり耳がおかしいせいか。
『待っててくれてありがとう』と素直に言えればいいのに、口から出すには死ぬほど勇気がいる。そんな私を夫は5秒ほど黙って見つめたあと、自分の腕時計に目をやり言った。
「フゥ……そろそろ、行くわ。」
「……うん。」
立ち上がる夫のあとを追い部屋の入口の方へ向かう。
私たちは別居中なのだ。夫には帰る場所がある。そう分かっているのに、なぜか夫の背中を見ていると、行かないでと言いたい衝動にかられる。
それを我慢していると、夫が入口の少し手前でゆっくり振り向いた。
「こはる……」
「ん?」
「……いや、何でもない。」
そう言って、また私に背中を向ける。
あと数歩で夫は部屋を出ていく。
そう思った瞬間、今度は私の身体が動いていた。
「ねぇ。」
小さくそう言って、夫のシャツを引っ張ると、驚いたように彼が振り向いた。
「あ…のね、今日は遅いからここに……泊まっていく?」
「……いーのか?」
聞き返してくる夫に私は首を振って言った。
「いや、違う。そーじゃなくて、」
「あ?」
「母はあなたが長い出張に行ってて家に帰って来なかったと思ってるの。けど、今あなたはここにいる訳で、きっと出張が終わったと勘違いしてる。」
「…………」
「またあなたが家を空けたら、今度こそ母は怪しいと思うかも。」
「だから?」
「だから……」
私が言いたいのは、コレ。
「……ここに、戻ってくる?」
口から心臓が飛び出そうなほど勇気をだして言った。どうせ離婚を前提にした別居中なんだから、鼻で笑われて冗談はよしてくれと背中を向けられるのも覚悟した。
けど、私の言葉に対する夫の態度は違った。
「ああ。今すぐそうする。」
そう言って、私の頭にポンポンと軽く手を乗せたあと、私の横を通り過ぎていき、何事も無かったかのように自分の寝室へと入っていく。
残された私は、夫の手の温もりが残る頭を押さえながら、「もぉ、ハズカシイ」と消えそうな声で呟いた。
……………………
久しぶりに足を踏み入れた自分の寝室で、俺はすぐにヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
こはるから、
「ここに、戻ってくる?」
と言われ、どれほど心臓が激しく鳴ったか。
ヤバい、マジで思春期の男子じゃねーんだから、妻の一言一言にそんなにドキドキすんなっと自分に喝を入れてやりたい。
またここでこはると暮らせる。つい数ヶ月前までは妻との生活に嫌気がさしていたというのに、今はまるで新婚のように興奮している。
こはると離れて分かったから。俺にとってこはるは大事な存在だと。だからあいつが二度と顔も見たくないと言うまで、いや、言われたとしても俺は最後まで食らいつくつもりだ。
久しぶりのベッドにゴロンと横になると、道明寺邸とは違う香りに包まれる。それはこはるの香りでもある笹倉邸のもの。
その香りに包まれながら、俺は久しぶりに深い眠りについた。

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