こはるびより 13

こはるびより

耳の不調が出るようになってから3ヶ月が過ぎた。初めは耳に何かが詰まったようで聞こえにくい程度だったが、今は左耳はほとんど聞こえない状態にまで悪化している。

特に、夜勤が続き疲れていたり、夜眠れずに寝不足で目覚めた翌日は、聞こえる方の右耳にまで耳鳴りがして激しい頭痛に襲われる。

そのうち少しづつ仕事にも影響が出始めた。手術中に麻酔科医の声が聞こえず危うく医療ミスを起こしかけたり、問診中の患者の声を聴き逃したり。

さすがに限界か……何か問題を起こしてからでは遅いのだ。

悩みに悩んだ結果、私はある決断をした。

『医師の仕事を辞める』

年老いて腰が曲がり、耳が遠くなり、目がかすみ始めたら引退するとばかり思っていた医師という仕事を、こんな志半ばで辞めるとは想像もしていなかった。

私からこの仕事を取ったら何が残るのだろう。笹倉家の娘として生まれ、家業を継ぐことなく歩んできた道。今更辞めて戻ってくる私を両親は受け入れるだろうか。

そんなことを悶々と考えても答えは見つからず、そんな私を嘲笑うように耳の状態だけが日々悪化していった。

そうして辞めることを決断をしてから1ヶ月後の今日、私は研修医時代から7年間お世話になった大学病院を退職した。

病院長と外科部長、そして本田先生と治療に当たってくれた耳鼻科部長にだけひっそりと挨拶をし、慣れ親しんだ病院を出た瞬間、私の目からポロポロと涙がこぼれた。

医師として働けなくなった訳では無い。また完治すればいつかきっと……そう自分に言い聞かせながら真っ直ぐ前を向いて歩く。夜でよかった。こんなに泣いている姿を誰にも見られなくないから。

涙がとまるまで……と思い、タクシーにも乗らず駅にも入らず、ひたすら歩いているといつしか大きな公園が見えてきた。

その公園に入りベンチに腰掛ける。若者が数人スケボーをしていて時折楽しそうに歓声をあげる。そのまわりでは散歩するご夫婦の姿や、仲間とジョギングをする男性。

こんな風にゆっくりと街の風景に目を向けたのは何年ぶりだろうか。家と仕事場との往復しかせず、旅行にさえ行かずに過ぎてしまった20代。

再来月には30歳になる。私もこの目の前にいる人たちのように、誰かと一緒に趣味を楽しんで笑い合えることが出来るのだろうか。

携帯を取り出してじっと画面を見つめる。こんな時、声を聞きたい相手。

それを考えて、苦笑する。

バカな私。こんな時に別居中の夫の顔が思い浮かぶなんて。

すると、その考えを打ち消すかのように、目の前で携帯の画面が暗くなった。どうやら充電切れだ。

………………

その夜、23時を回ろうとしていた時、携帯が鳴った。画面を見ると義父からだ。

こんな時間に連絡してくる事は今まで無かった。仕事のことならばメールでしてくるはずで、何か急用か。

「もしもし。」

できるだけ冷静に答えると、

「司くん、遅くに申し訳ない。」

と、義父の上擦った声がした。

「どうしました?」

「こはるとは一緒じゃないかね?」

「え?こはるですか?ここにはいませんけど。」

すると、はぁーーと義父からため息が漏れる。

「こはるに何かあったんですか?」

「いや、それが……実は今日、病院を退職したそうなんだ。」

「っ!退職?」

「ああ。耳の具合が思った以上に悪くて、仕事にも支障が出てきたようで、1か月前に退職願を出していたって。」

「……それで、こはるは?」

「さっきお世話になってた外科部長から僕のところに連絡が来て、病院を出る時のこはるの様子がかなり沈んでいたから心配で、無事に家に着いたかって聞いてきたんだ。」

「帰ってないんですか?」

「携帯に電話しても出ない。」

「他に行きそうなところは?」

「僕よりも司くんの方が知ってるだろうし。もしかしたら司くんに連絡してるかと思って。」

「…………。」

こはるの交友関係……、学生時代の友人しか思いつかないし、今も連絡をとっているとは思えない。他には……そう考えて思い当たる人物が1人いる。

「同僚の本田ドクターは?」

「本田先生?こはると親しいのか?」

「…………」

どこまで親しいのか俺も知らないし、知るのが怖くて触れずにいた。でも、今はそんなことを言っている場合じゃない。

「俺から連絡してみます。」

義父にそう告げて、俺はすぐに西田に連絡し本田ドクターの番号を調べさせた。

そうして本田ドクターと連絡が着いたのはそれから15分後だった。

夜勤中の本田ドクターに緊急だと言って電話を繋いでもらう。事情を話すと、

「笹倉、まだ帰ってないんですか?病院を出たのは確か4時間も前ですよ!」

「あいつに何か変わった様子は?」

「まぁ、仕事を辞めることはショックだったでしょうし、涙を堪えてるのは俺から見ても分かりましたけど、最後まで明るく振舞ってましたよ。……でも、今思えば、それがかえって辛かったかぁ。」

「もし病院に戻ってきたら、何時でもいい、俺に連絡してくれ。」

「分かりました。」

そう言って電話を切ろうとした時、

「あっ、道明寺さんっ!」

と本田ドクターが言う。

「あ?」

「あのぉ、この間の話ですけど、」

「……?」

「俺が笹倉を好きだって」

「今はその話をしてる暇はねーから。」

「そうじゃなくてっ!あれは全部嘘ですからっ。」

「あ゛?」

「ちょっと色々と誤解があったんであんな嘘をついたんですけど、今度ゆっくり弁解させてくださいっ。」

「……ああ。分かった。」

俺はそう言って電話を切った。

………………

それから1時間たってもこはると連絡がつかず、途方に暮れた俺は、笹倉邸の門扉の階段に座り込み、携帯を握りしめ俯いていた。

あいつにとって医師という仕事は天職だ。どれだけ苦労して、どれだけ努力して、その仕事を全うしてきたかは近くで見てきて分かっている。

だからこそ、自分の病気で投げ出さなければならないのがどれほど悔しいことか。そして、そうさせたのはこの俺だ。

あいつに精神的なストレスを与えて苦しめた俺のせい。今更後悔しても遅いが、こはると別居して離れてみて分かった。結局、気になって会いたくて守りたいのはあいつだけだってこと。離れてる期間が長くなればなるほど、想いが募る。

もしも、そのこはるを失うことがあれば……、

そんなネガティブな思考にいきかけた時、頭上から声がした。

「……つ…かさ?」

「こはるっ!」

「どうしてここに?」

それに答えるよりも早く、俺の身体が動いていた。こはるの華奢な身体を引き寄せて強く抱きしめる。

「バカ……探したんだぞ。」

「え?……どうして?」

「……辞めたんだろ、仕事。」

「…………。」

こはるは何も答えない。

「どこに行ってた?」

「……色々。」

そう呟くこはるの声が震えるのが分かる。弱みを見せたがらないこいつだから、きっとどこかで一人で泣いていたのだろう。そんな姿に胸がギュッと締め付けられて、俺の声も震える。

「そんなに頼りにならねーかよ俺は。おまえが泣く時くらい、側に居て旦那らしいことさせてくれよ。」

「ンッ…ンッ……つかさ……」

泣きながら俺の名前を呼ぶ。それがくすぐったくて、俺は笑いながら言う。

「こはる。」

「……ん?」

「俺の事、名前で呼ぶの久しぶりだろ。」

「っ!」

すると、急に身体をかたくして、恥ずかしいのか俺の腕から抜け出そうとする。

俺はそれを阻止してさらに強くだきしめがら、こはるの肩に顔を埋めた。

こはるからは俺たちの部屋の香りがする。離れてから恋しかったこの香り。それをもう一度全身に取り込もうと大きく息を吸い込んだその時、背後にある笹倉邸の門が大きな音を立てて開いた。

「こはるっ!」

こはるの帰りを心配した義母が外まで見に来たのだ。

その義母の登場に俺たちは慌てて身体を離した。

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