こはるびより 12

こはるびより

パーティー会場から抜け出した私たちはホテルの前からタクシーに乗った。

「楓ホテルまで。」

夫がそう告げるのを聞きながら、義母が所有する高級ホテルを思い出す。

確か、結婚したての頃はよく楓ホテルのバーで2人でお酒を呑み、そのまま夫のプライベートルームで夜を明かしたりもした。

それは甘く楽しい時間だったけれど、その後夫の本当の気持ちを知ってからは、全てが汚らわしく思えた。

『政略結婚でなんの感情もない相手』である私。とすれば、夫は他に愛している女性がいるのではないか。きっと彼女とも同じように、このプライベートルームで…………。

「どうした?あのバーに行くのは嫌だったか?」

昔を思い出し表情が険しくなっていた私に夫が聞く。

「…ううん。大丈夫。」

さっきまで握られていた手の温かさとは逆に、また心が冷たく凍りつくのが分かる。

どうして私はこんなにも夫の言動に振り回されて揺れ動くのだろう。

もう、とっくに心は離れているはずなのに。

タクシーが楓ホテルの前に着いた。降りると夜風が涼しくて、レースのドレスの私は軽く身震いした。

すると、夫はそれを察知して自分のスーツの上着を脱ぎ、私の肩に乗せてくれる。こういう所は育ちの影響なのか憎いくらいスマートで紳士的。

エレベーターで33階のバーへ上がると、スタッフが待ち構えていて、私たちを奥のカウンターへ案内してくれる。

「いらっしゃいませ、道明寺様。」

「いつものを。」

「奥様は?」

「…妻には胃に優しいカクテルと、なにかつまめるものを少し。」

「承知しました。」

その会話を聞きながら、私は不思議に思う。どうしてこのスタッフは私のことをすぐに妻だと分かったのだろうか。

ここにはもう3年以上来ていないし、このスタッフには会った記憶もない。それとも、女性を連れていれば、誰でも『奥様』と呼ぶのだろうか。

また思考がネガティブな方へいきかけた時、私たちの前に飲み物が置かれた。

それをゆっくり口に含むと、さっきまで考えていたモヤモヤが薄らいでいく。やっぱり私は食べたり飲んだりすれば元気になれる単純な女なのだ。

そんな自分に小さく笑みが漏れると、

「こはる。」

と、夫が私を見て言った。

「耳の調子はどうだ?」

「相変わらず。」

「医者はなんて言ってる?」

「様子を見るしかないって。」

そう答えたあと、考えるように黙り込む夫。

お酒は美味しいけれど、カウンターに別居中の夫婦が並んで座っても、何を話していいのか気まずい。

沈黙が苦しくて、それを紛らわすようにグラスをグイッと空けようとした時、私たちの背後から、

「あら、司?」

と声がした。

「姉ちゃんっ。」

「偶然ねぇ、こんな時間に2人でデート?」

声の持ち主は道明寺椿さん。夫の姉だ。

結婚してニューヨークに住んでいるはずなのに…。

その疑問をすぐに解消する。

「友人の結婚式にお呼ばれして帰国してたのよ。こはるちゃん元気だった?相変わらず可愛いわねぇ。会えて嬉しいわっ。」

「姉ちゃん、強すぎるバカ。こはるが苦しいだろ。離せっ。」

「なによ、久しぶりの再会だもん、ハグぐらいさせてよ。」

結構な力で私をハグするお姉さんと、それを引き剥がそうとする夫。相変わらずこの姉弟は顔に似合わずヤンチャにやり合う。

「私、今日はここのホテルに泊まるのよ。寝る前の一杯にと思ってひとり寂しくバーに来たんだけど、ちょうど良かったわ。一杯だけ一緒にいいかしら?」

「断る。」

「なによっ、私はこはるちゃんに聞いてるのっ。」

「大事な話の途中なんだよ、邪魔すんな。」

「相変わらず憎たらしい弟ね。」

夫を睨むお姉さん。そんな椿さんに私は慌てて言った。

「どうぞどうぞ、私達も今来たところなんで、一緒に呑みましょう。」

「いーの?ヤッター。」

あっという間に私の隣に座る椿さん。夫はあからさまに深いため息を付いているけれど、私にとっては願ってもいない救世主。

夫と2人では気まずかったから、椿さんの存在は有難い。

「こはるちゃんに会うのは2年ぶりかしら。元気だった?」

「…はい。」

「それにしても、相変わらずラブラブなのね。」

私たちを見てそう言うお姉さんに、なんて答えていいか分からず、チラッと夫の方を見ると、私にだけ分かるように小さく首を振る。

どうやら私たちの仲が良くないことをお姉さんは知らないようだ。

とその時、夫の携帯が小さく鳴り画面を見たあと、

「お義父さんからだ。俺たちが逃げたのに気づいたらしい。」

と、渋い顔をする。

「無視して。」

「さすがにマズイだろ。ちょっと電話してくる。」

夫は私とお姉さんを置いてバーの外に出て行った。

それを見つめながらお姉さんは笑って言った。

「ちゃんと婿やってるのね、あの子。」

「…はい。」

「わがままで俺様だった司をこはるちゃんが変えてくれたのね。」

「え?」

「どんな縁談も頑なに蹴ってきたのに、こはるちゃんに会ったたった1回で結婚を決めた男よ。」

「それは、……私が笹倉家の娘だから。」

「そんなの司に通用すると思う?アラブの石油王の娘から縁談がきたって断るくらいなんだから、家柄なんて関係ないの。こはるちゃんにベタ惚れで、鼻の下伸ばしてる弟を見ると、からかい甲斐があって私も幸せよ〜。」

「鼻の下って……夫が伸びてるの見た事ありませんけど。」

「そう?結婚する前も何回かデートを重ねてたでしょ。その度にニヤついて帰ってきてたし、結婚式の衣装を2人で試着しに行った日も、スタッフに撮ってもらった写真を大事に財布に入れてたわよ。」

「えっ、そんな……。」

「案外ああ見えて、一途でロマンチストなのよ。」

と言ったあと、

「ねぇ?」

と、バーテンダーに向けて笑うお姉さん。

「はい、奥様との最初のデートで座られたその席は、その後お2人以外には座らせないようにと仰られまして……」

「夫がですかっ?」

「はい、そうです。いつおふたりが来てもいいようにこの席は空けておくように申し使っております。」

「…………。」

驚きで固まる私。

すると、お姉さんは綺麗にウインクしたあと、

「さぁ、美味しい一杯を呑んだから私は部屋に戻って寝るとするわ。こはるちゃん、私しばらく日本にいる予定なの。だから邸に遊びに来てね、葵にも会わせたいし。」と言う。

葵ちゃんとはお姉さんの5歳になる一人娘で、夫にとっては姪っ子だ。

「……分かりました。」

私はとりあえずそう言って、お姉さんに頭を下げた。

………………

私たちがホテルを出たのは23時を回っていた。

タクシーが笹倉邸の外門の手前で止まる。

私が降りたあと、夫もタクシーをその場に残したまま、私を門の前まで送ってくれる。

なんだか妙な気分だ。

ここは夫の家でもあるはずなのに、今の私たちはここで別れるなんて。

「これ、ありがとう。」

夫に借りていたスーツの上着を脱ごうとすると、

「そのままでいろ。」

と言ってもう一度私の肩にかける。

こういう事をされると、お姉さんの話を聞いたあとだから、勘違いしてしまいそうになる自分が嫌だ。

でも、どんなに否定しても心は正直で、もう少し一緒にいたい……なんてバカみたいに思ってしまっている事が口から出てきてしまう前に、

「じゃ、行くね。」

と言って、私は夫に背を向けた。

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