笹倉邸
夫が家を出てから5日が過ぎた。
父は私たち夫婦が不仲で別居したことを知っているけれど、母は何も知らない。
もともとお嬢様育ちの母は、人を疑うということを知らない人だ。
だから、夫が道明寺家の仕事の関係で長く出張になったと告げても、明るく『大変ねぇ。』と言ったきり疑う素振りも見せなかった。
夫が居ないと、私たち夫婦のリビングはいつも以上に広く感じる。
夜遅くまで好きな映画を観ていられるし、スナック菓子を爆食いしても止められることもない。
ソファーにごろりと横になりながら目をつぶり、
「なんて快適なの。」
と、呟いてみる。
その言葉とは裏腹に、声に元気は無い。
正直に言うと、夫が居ないと生活にハリが出ないということを今更ながら知った。
夫は根っからのお坊ちゃまだ。やることなすこと、クールで品がある。
疲れてソファーでダラけている時でさえ、ずっと見ていられるほど綺麗だ。
そんな相手と一緒にいれば、自ずとこちらも身だしなみには気をつけてきた。
シャワーの後でも必ず爽やかな香水をまとい、部屋着だって一応女らしい物を選び、ノーメイクでも映えるようにほんのり赤いリップを付け…………
それなのに、今の私はどうだ。
ソファーから起き上がり、自分の姿を見てみると、
髪も乾かさずお団子のまま、顔は面倒くさくて化粧水だけ、下着に関しては誰にも見られる心配は皆無だと、上下バラバラ。
こんな姿を夫が見たら、どんな反応をするだろうか。だらしがないと怒るのか、それとも、無愛想ながらも「どうした?具合わりぃーのか?」といつものように聞いてくるのか。
そんなことを考えて、私は慌てて頭を振る。
まただ、また私、夫のことを考えてしまっている。
と、その時、部屋の扉がノックされた。
「はい?」
「こはる、ちょっといいか?」
父の声だ。
扉を開けると、仕事帰りなのかスーツ姿の父が立っていた。
「来週の土曜、夜空けておいて欲しい。」
「なにかあるの?」
「お世話になっている三吉会長のバースデーパーティーがある。今年は77歳の喜寿だからいつもに増して盛大にやるそうなんだ。私と司くんに招待状が届いていて、夫婦で出席する事になっているからそのつもりでいてくれ。」
「夫婦で……」
「ああ。かすみには、おまえたちが別居してるとは話してないから、パーティーくらい一緒に出ないと怪しむぞ。」
母の名前を出されると弱い。いつか打ち明けなくちゃいけないのは分かっているけれど、離婚すると知ったら、夫が大好きな母はきっと泣き崩れるだろう。
「……わかった。空けておく。」
「頼んだぞ。」
父が私の肩をそっと撫で、去っていく。その後ろ姿がなんだか元気がなくて、自分の親不孝ぶりがまた辛かった。
…………………………
道明寺邸
笹倉邸を出てから5日が過ぎた。相変わらず仕事は忙しい。笹倉不動産の方の仕事と道明寺ホールディングスの方の仕事の掛け持ちで、毎日帰るのは23時を過ぎる。
でも、そのくらいがちょうどいい。
邸に帰れば、別居の理由についてババァの尋問にあい頭が痛い。
こはるはどうしているだろうか。俺が居なくなってストレスも減っただろうから、耳も少しは改善したか。暴飲暴食をして胃が痛くなって夜中に薬を飲んだりしていないか。
頭の中に少しでも余裕ができると、妻のことを考えてしまう。喧嘩して離婚を前提にした別居だというのに、なんだこの情けない始末は。
まるで、片想い中の青臭いガキだな俺は。
ただ、何度考えても腑に落ちないことがある。
それは、こはるが言っていた総二郎の襲名披露パーティーの夜のことだ。
確かに俺はかなり酔っ払っていた。あいつらに新婚生活を冷やかされて、いつも以上に酒を呑んだ覚えがある。
でも、だからといって、心にもないことを口走るとは信じ難い。俺とこはるの結婚が愛のないもので、両家のために子供を作り、つまらない人生を送る……そんな事を本当に俺は言ったのだろうか。
こはるが聞いたと言うのだから、嘘では無いのだろう。けれど、それが真実ではない事は俺がいちばん知っている。
なぜなら、俺はこはるを愛していたから。
たぶん、初めて会った時から一目惚れだった。パーティーで爆食いするどこぞのお嬢様が、実は名高い名家の一人娘で、しかもその地位に驕れることなく医者として着実に実績を残している。
華奢で愛らしい見た目からは想像もできないほど芯が通った強い女。その妻に結婚生活をはじめるうちにどんどん俺は惹かれていった。
そして、総二郎の襲名披露パーティーはその頃行われたはずだから、やはりこはるが言ったような暴言を俺が言うとは考えにくい。
何度考えても納得がいかないが、あの日は俺だけじゃなくあいつら3人も相当呑んでいた。今更確かめる術がないのが悔しい。
そして、こはるの言っていることが確かなら、こはるが俺に対して冷たくよそよそしくなった時期と一致する。たぶんあいつは俺のその言葉を聞いて、俺の事を信じられなくなったのだろう。
深く溜息をつきながら、スーツの上着を脱ぎ携帯をデスクの上に置く。
すると、メールの着信を知らせるランプが赤く点灯していた。
開くと義父からだ。
『三吉会長のパーティーの件。こはるには伝えて了承を得たので夫婦で出席して欲しい。娘のことで迷惑をかけて申し訳ないが、機会をみてもう一度今後の事を2人で話し合って貰えると嬉しい。』
そう綴られたメール。
それを見て、俺は携帯を握りしめる。
久しぶりにこはるに電話をかけようか。パーティーの時間や衣装の打ち合わせなど電話をする理由はいくらでもある。
そう自分に言い聞かせながら、携帯の画面にこはるの名前を呼び出すが、なかなか通話ボタンが押せない。
そんな自分に苦笑しながら、
「ったく、ほんとに俺はガキにでもなったのかよ。」
と、ひとり呟いて髪をかきあげた。
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