緊急で入った手術を終えて、ドクタールームへ戻ろうとしていた時、背後から
「笹倉っ!」
と、切羽詰まった声で呼び止められた。
「本田先生、どうしたんですか?」
また急患が来たのだろうか、そう思ったが、本田先生の次の言葉で面食らう。
「笹倉、マジでごめん!」
「え?何がですか?」
「俺、熱くなって言わなくてもいい事まで言った。」
そう言って項垂れる本田先生。
「どういう意味?」
「笹倉の旦那さん、道明寺さんがロビーに来てたんだ。」
「えっ?」
「笹倉にって、夜食の差し入れを持ってきた。それを見て、なんか俺カチンと来ちゃって。」
「…………。」
「だって、今まで笹倉に無関心だったくせに、耳のことを知ってから急に献身的に振舞ってるだろ。笹倉から政略結婚の話も聞いたあとだから、それが凄い偽善的に思えて。」
「それで?言わなくてもいい事って?」
「それが…………離婚すべきだって余計なお節介を。」
「……夫はなんて?」
「おまえに言われる筋合いは無いってさ。」
夫らしい返答に思わずプッと笑ってしまうと、本田先生はそれを見て、深い溜息をつきながら言った。
「それだけじゃないんだ。」
「ん?」
「売り言葉に買い言葉って言うのかな……俺が笹倉を好きだって言っちゃったんだ。」
「はいっ?」
「いやぁ、ほんとごめん!こんな流れになるつもりはなかったんだよっ。でも、笹倉をこんな風に追い込んだのは旦那だろ?だから、少しお仕置してやりたくて。」
お仕置って子供じゃないんだから、する相手も方法も間違えている。
「ほんとごめん。」
腰を90度に折り曲げて謝ってくる本田先生を見て、一気に疲れが襲ってくる。
「……もぉ、いーですよ。私、疲れてるんで少し当直室で寝ます。コールがあるまでそっとしておいて下さい。」
「ダメダメダメダメ。」
「え?」
「笹倉が来るまで、外の駐車場で待ってるって、旦那さんが言ってた。」
しょんぼりしながらそう言う本田先生。その背中を私はバシッと叩いて、「もぉ、知らないっ!」と捨て台詞を残しドクタールームに向かった。
………………
着替えを済ませ病院を出たのは23時を少し回っていた。
駐車場に行きぐるりと辺りを見回すと、夫の車の横でこちらに向かって一礼する西田さんの姿が見えた。
「奥様、お疲れ様です。」
「遅くなりました。」
「邸までお送りします。」
そう言って西田さんが後部座席のドアを開けると、夫が脚を組みながら不機嫌そうに座っていた。
どうやら、本田先生はかなり夫を怒らせたようだ。ここまで私の前で露骨に機嫌が悪い姿を見せるのは今までになかったから。
お互い何も話さず、車は夜の街を邸に向かって進む。そして、邸につき使用人達が出迎える中、私たちは部屋に入るまで一言も話すことは無かった。
いつもならそれでも良かった。でも、本田先生から事情は聞いていたから、訂正するところは今のうちにしておきたい。
そう思い、夫の背中に向けて言った。
「本田先生から聞いた。なんか余計なことを言ってあなたを怒らせたって。」
すると、振り向いて私のことをじっと見つめる。
「な、なに?」
「余計なこと?あいつがおまえを好きだってことか?」
「それは、本田先生が勝手に」
「あいつからの好意を知ってて、おまえはあいつになんでもペラペラ喋るんだな。」
「え?」
「愛のない政略結婚?そもそも結婚したこと自体間違えだった?……他人に俺達のことをそんな風に言うなんてどうかしてるっ。」
どうして、あなたがそんなに辛そうな顔で言うの?先にそれを口にしたのはあなたの方なのに。
私の中にもじわじわと怒りが込み上げてくる。
「……被害者振らないでよ。」
「あ?」
「まるで私だけが悪いみたいに言わないで。少なくとも、私よりもあなたの方が先に、そう口にしたんだから。」
言わないつもりでいた。これを言ったら本当に私たちの関係は終わると思っていたから。でも、もう限界。
「西門さんの襲名披露パーティーがあった日のこと、覚えてる?」
「……?俺たちが結婚してすぐだろ?」
「そう。あの日、パーティーのあと幼なじみ4人で呑みに行ったわよね。そして酔っ払ったから迎えに来て欲しいって連絡が来て、私がお店まで迎えに行った。」
「…………」
「その時、聞いたの。彼らの前で酔ったあなたが辛そうに話してた。『俺の人生は親に決められた政略結婚で、好きでもない女と一緒にさせられた挙句、両家のために後継も産まなきゃいけない。そういう相手と暮らしながら、いつしかなんの感情も忘れて、ひたすら仕事を全うするだけのつまらない人生だろう。って。」
「っ!俺がっ?」
驚いたように聞き返してくる夫にさらに怒りが募る。この人は自分で言ったことも覚えていないのか。
「だから、……もう楽にしてあげる。あなたの望み通り、別れましょう。」
「こはるっ!」
夫がここまで怒って感情的に私の名前を呼ぶのは初めてだ。
私の方に近づいてきて、そのまま身体を壁まで追い詰める。
「こはる、俺はおまえのことを……」
そう言ったままじっと見つめるその目は、怒りなのか悲しみなのか、ユラユラと揺れ、潤む。
その瞳に向かって私は言った。
「もう、お互い苦しむのはやめにしたいの。」
……………………
次の日、朝起きるとリビングに小さなメモ紙が置かれていた。
そこには夫の字で、
『道明寺邸に戻る。』
とだけ書いてあった。
それを見つめながら、私はソファーに深く沈み込む。
とうとう、私たちは次の段階に入ってしまったのだ。離婚までは両家の問題もあるからそう簡単には進まないだろう。でも、もう彼と一緒に暮らすことはなくなったのだ。
その現実は私自身が望んでいたものなのに、こうして彼がいなくなった広いリビングを見回すと、なぜだかものすごく虚無感に打ちのめされている自分がいて、静かに肘を抱えて目を閉じた。
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