治療を終えたこはるが部屋に戻ってきた。その腕には白い包帯が巻かれている。
「大丈夫か?」
「平気。」
そう答えて自分の部屋に入ろうとするこはるに俺は直球で言った。
「こはる、右耳はいつから聞こえていない?」
こはるが驚いた顔で振り向く。
「どうしてっ、それを?」
「やっぱり……おまえの様子を見てたら分かる。」
「…………。」
「どれくらい聞こえない?医者はなんて言ってる?薬はいつから……」
矢継ぎ早に聞く俺に、こはるは片手を上げて、
「やめて。」
と、静かに言った。
その突き放した言い方にイライラが増し口調が荒くなる。
「なんでもっと早く言わねーんだよ。」
「言ってどうにかなる事じゃないっ。」
「誰も知らないのか?」
「…………」
その沈黙で、感じ取る。
「あの本田とかいうドクターは知ってるんだな?」
「本田先生には仕事で迷惑かけるから、」
「同僚と旦那とどっちが大事なんだよっ。話す相手を間違えてるだろ。」
自分で言ってて、情けなくてため息が出る。そんな俺に、こはるは悲しそうな顔で言った。
「ストレスが原因だって言われたの。かなり前から時々耳鳴りが酷くて聞こえずらくなってた。それが最近、毎日続くようになって、3日前から全く音が聞こえなくなった。仕事の疲れもあると思うけど、原因はそれじゃないって分かってる。」
「……?」
「私にとって、この結婚生活が1番のストレスなの。だから、お願い、私のことは放っておいて。」
………………
こはるに俺との結婚生活が1番のストレスだと言われ、責任は俺だけにある訳じゃねーだろと怒鳴りたくなる感情を抑え、朝まで悶々と過ごした。
でも、それと同時にある違った感情も芽生えた。それは、あんな状態のこはるを放っておけないという真逆の感情。
車の運転が苦手なこはるは、いつも電車かタクシーを利用している。勤務する病院も車通りの激しいところだ。
耳が聞こえないことに慣れていないあいつは、今までのように1人で通勤して仕事ができるのだろうか。
それに、いくら精神的ストレスだと言っても、常習化している夜勤の連続や当直室での寝泊まりも病気に影響してる可能性はある。
まずはそれを改善して…………、
そこまで考えてハッとする。
昨夜は別居、いや離婚まで考えていたのに、今はもうその選択肢はない。今のこはるを1人にする気は毛頭ない。
と、その時、こはるが自分のベッドルームから出てきて、リビングのソファーに座る俺と目が合った。
「……おはよ。」
「おう。……何時に家を出る?」
普段はそんなことを聞かないから、こはるはいぶかしげに俺を見る。
「8時少し前くらい。」
あと30分ほどだ。俺は立ち上がり支度に取り掛かろうとしたら、
「ねぇ、」
と、こはるが言った。
「……耳の事だけど、父と母には黙ってて。」
「言わないつもりか?」
「心配かけたくないの。まだ治療を始めたばかりだし、直ぐに治るかもしれない。だから、もう少し、」
「分かった。その代わり条件がある。」
「え?」
眉間に皺を寄せ聞き返してくるこはるに、俺は腕時計で時間を確認したあと言った。
「治るまで、俺が職場まで送っていく。」
「はぁ?」
「昨夜の怪我でわかっただろ?普通の生活の中でもどこで危ない目に合うかわかんねーんだぞ。」
「でもっ、」
「それが嫌なら、お義母さんに事情を説明して、邸の運転手に送迎を頼むか?」
「…………。」
こはるが上目遣いで俺を睨んでくる。
「どうする?」
「別居するって話は?」
「あー、とりあえず今はナシだろ。耳のことに加えて別居するなんて知ったら、それこそお義母さん倒れるぞ。それでも今言うか?」
「……ヒドイ。」
本気で殴りかかってきそうなこはるだが、俺はなんだか楽しくなってきて、口元が緩む。
「こはる、8時になるぞ。」
「えっ!あっ、今日カンファレンスがあるから急がなきゃいけないのにっ」
壁の時計を見て慌てるこはる。
「下で待ってる。急いで用意してこい。」
「…………」
それでも迷ってるのか返事をしないこはるに、
「車の中なら朝食を食べながらカンファレンスの準備もできるぞ。」
と言って背中を押してやると、
「途中で濃いめのコーヒーも買わせて。」
と言い残し、バタバタと身支度するためリビングを出ていった。
その姿を見送ったあと、俺もスーツの上着を着込み車のキーを持ち下のガレージにおりていく。
指先でキーをクルクル回しながら階段をおりていると、
「おはようございます。今日はご機嫌ですね。」
と、笹倉邸で1番古株の使用人が声をかけてきた。
ご機嫌……か。
確かに、そうかもしれない。
こはるとこんな風に会話をしたのはいつぶりだろう。
いつも事務的なやり取りしかしてなかったけれど、久しぶりにあいつのコロコロ変わる表情を間近で見たような気がする。
「お帰りは遅くなりますか?」
「うん。……いや、今日は早く帰ります。」
なぜなら、帰りもこはるを迎えに行こうと決めているから。
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