昨夜、こはるにメールをしたが既読になったまま返信はない。
あいつは家に帰ってくるだろうか、それとも今日もまた病院に泊まるのだろうか。
どちらとも分からないまま時間だけが過ぎていき、20時を回った頃、俺たちの部屋の扉が開いた。
「……ただいま。」
「……おう。」
一昨日喧嘩別れをしたあと、初めて言葉を交わすからお互い気まずい。
あまり目を合わせることなく自分が使っている奥のベッドルームに入っていこうとする妻の背中に、
「こはる、少し話せるか?」
そう聞くが無言のままだ。
まだ俺の事を怒っていて無視しているのか?と思ったが、こはるはそこまでひねくれた性格では無い。
「こはる。」
もう一度大きな声で呼ぶと、ハッとして振り向く。
「2人で話したい。」
「うん、着替えてくる。」
しばらくして、ラフな服装に着替えたこはるが部屋から出てきて俺が座るソファーの正面に腰を下ろした。
さっきまでの視線を逸らす仕草はなく、まるで覚悟を決めてきたかのように俺の事を真っ直ぐに見つめ、
「どうぞ。」と静かに言った。
結婚して4年。世間ではまだ新婚の時期だと思われる俺たちだけど、実際はほとんどの時間を別々に過ごしてきた。
どうしてそうなったのかは俺自身も分からない。でも、もうお互いのためにもこの辺で何か手を打つべきだろう。
「こはる、俺たち別居しよう。」
「…別居?」
「ああ。ここはおまえの家だ。俺が居たら帰ってくるのが嫌なんだろ?だから、俺は道明寺邸で暮らす。」
「なんで?」
「あ?」
「なんで、……離婚じゃないの?」
離婚……その言葉はなるべく言わないようにしていたのに、こはるの口からあっさり発せられた事に胸が痛い。
「離婚したいのか?」
「私の口から言わせたいの?その方が後々有利だから?」
「……どういう意味だよ。」
「政略結婚だもん、離婚となればそれなりに両家で争うことは避けられない。どちらが先に離婚を切り出したかは重要なことでしょ。」
「こはるっ、」
「あなたが父に言えないなら、私から言うから大丈夫。」
「……はぁ。」
思わず大きなため息が盛れる。
修復不可能だとは思っていたけれど、ここまで淡々と別れを切り出されると虚しい。
「義父にはもう話した。俺がここを出てお互い距離をおいた方がいいと。」
「話したの?父はなんて?」
「…………。」
もちろん、考え直せと言われた。夫婦の関係が上手くいっていないのは分かっていただろうけれど、離婚となれば1番困るのは義父かもしれない。
跡取りがいない笹倉家は、婿の俺が後継者だ。仕事を引き継いで笹倉不動産を維持するためには俺に離れられたら困るはず。
「とにかく、離婚となれば俺たちだけの話では済まないのはこはるも分かってるだろ。だから、」
そこまで言った時、部屋の扉がノックされ、
「こはる、帰ってきてるの?」
と、義母の明るい声がした。
でも、それにこはるは気づいていないようで、俺の言葉の続きを待つかのように見つめてくる。
「……こはる、お義母さんだぞ。」
俺がそう言って扉の方を指さす。
すると、また「こはる、居るの?」と今度はさっきより大きな義母の声がした。
反射的にこはるが立ち上がる。それを制するかのように俺はこはるに言った。
「義母にはまだこの事は言ってない。心配かけるから、きちんと話がまとまったら話すことにしたい。」
その言葉に、こはるも小さく頷いた。
………………
久しぶりにこはるが笹倉邸に帰ってきて、義母も喜んでいる。
ダイニングに俺とこはると義母が集まり、遅い時間のティータイムが始まった。
「仕事が忙しいからって、病院で寝泊まりしてばかりじゃダメじゃない。身体を壊すわよ。」
「通勤時間よりも睡眠時間を優先したいの。」
「またそんなこと言って。司くんも邸にひとりじゃ寂しいのよ。夜勤以外はきちんと帰ってらっしゃい。」
義母の前では仲の良い夫婦を演じてきた俺たち。冷めきった関係だとは夢にも思っていない義母は俺たちを交互に見て嬉しそうに話す。
今日のティータイムはこはるの好きなスコーンだ。甘すぎないラズベリーのスコーンと少し癖のあるブルーチーズのスコーン。どちらも邸のシェフがこはるのために急いで作ったものらしく、まだ焼きたてで温かい。
飲み物はもう21時を過ぎているのでコーヒーではなくホットワイン。笹倉邸の夜のティータイムでは定番だ。
使用人が俺たちの会話を邪魔しないように、「お熱いのでお気をつけください」と言いながら、そっと横からカップにワインを注ぎ足していく。
そして、こはるのカップにワインを注ぐ番になった時、思いもよらない事が起きた。
俺たちの時と同様、使用人は注意深くワインボトルを手に持ち、右後ろから声をかけカップに注ごうとした瞬間、こはるが「ちょっとお手洗いに」と立ち上がったのだ。
「こはるっ!」
思わず叫ぶ俺。でも、その声は遅く、こはるの右腕とホットワインが入ったボトルがぶつかり、中身がこはるの腕にかかった。
「あっ、熱っ!」
「大丈夫かっ?」
こはるに駆け寄ると、運悪く半袖だったこはるの腕は真っ赤になっている。
「医者を呼んでくれ!」
「大丈夫、これくらいなら平気。」
「んなわけねーだろ、直ぐに連絡してくれ。それと、なにか冷やせるもの持って来いっ。」
こはるの白い肌がみるみる赤くなり俺も動揺が隠せず、オドオドしている使用人たちに思わず怒鳴ってしまった。
すると、そんな俺の胸を軽くポンポンと叩いたあと、座り込み震えているワインをかけてしまった使用人に近づくこはる。
「大丈夫よ。冷やせばなんともないから安心して。ごめんなさいね、私の不注意で。」
そう言って、そっと背中を撫でた。
その余裕と思いやりのある姿は、さすが真のお嬢様というものなのだろうか。
情があり、品があり、美しいの一言で、俺は言葉を失った。
……………………
それから直ぐに笹倉邸のお抱え医師が到着し、こはるのやけどの治療が行われた。
幸い、軽い火傷でしっかりと冷やせば跡も残らないだろうと。
その治療がなされている間、俺は自分の書斎に行き、デスクの中からあるものを取り出していた。
それは、以前ゴミ箱から拾った薬のプラスチックゴミ。それを眺め、今日ずっと感じていた違和感を確かめるためパソコンを開く。
そして、その薬の名前を打ち込んだ後、俺はもうひとつキーワードを入れた。
『耳が聞こえない』
ヒットした。間違いない。この薬は強いステロイド薬で、突発性難聴のような耳の異常に使われるものらしい。
俺が背中越しに声をかけても気づかなかったり、義母の扉のノックが聞こえなかったり、使用人の声掛けを無視して立ち上がったり……。
こはるの右耳が聞こえていないとしたら、全て納得ができるその行動。
俺はその薬のプラスチックゴミを握りしめ、頭を抱えた。
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