こはるびより 5

こはるびより

結局、昨夜は笹倉邸に帰らず、勤務する大学病院の当直室で一夜を明かした。

そして今日、寝不足のまま白衣に着替え病棟に行き、いつものように朝の回診を済ませたあと、コーヒーを片手に病院の屋上にあがった。

そして、ベンチに座り空を見上げる。

キーーーーンっと甲高い音の耳鳴り。最近はかなり激しくて薬も効かなくなってきている。

左の耳は常にイヤフォンを付けているような感覚で、くぐもった音しか聞き取れなくなっていた。

状態はかなり悪化している。それでも、今は頼れるものはこれしかなく、白衣のポケットから薬を1錠取り出すと、それを口に入れてコーヒーで流し込む。

「悪化すると大変なことになる。」同じ病院内にある耳鼻科のドクターにそう言われたのは3ヶ月前。積極的な治療をしなければいけないのは分かっているけれど、半年先まで埋まっている外科の手術スケジュールを見ると休んでいられない。

深く溜息をつきながらまたコーヒーを口にすると、胸ポケットに入れていたポケベルが振動した。

「さぁ、仕事仕事。」

そう呟いて私は屋上を後にした。

………………

夕方、勤務を終え久しぶりに早い時間に病院を出た。

半袖では肌寒く、持っていた黒のレザージャケットを羽織り、お団子にしていた髪の毛を無造作に下ろす。

時計を見ると19時。まだまだ夜は長い。でも、昨日夫に暴言を吐いて車を降りた手前、家に帰るのは気まずくて、とぼとぼと病院から駅までの道をゆっくり歩いていると、

パパーーーンっと車道からクラクションの音が聞こえた。振り向くと、黒のセダン。本田先生だ。

「笹倉っ、送ってく。」

「いえ、大丈夫で……」

「いいから、乗れ。」

最後まで言わせて貰えず、私は仕方なく本田先生の車に乗った。

せっかくゆっくり歩いて家に帰る時間を伸ばしたかったのに、車で送って貰ったらあっという間に着いてしまう。

それを阻止すべく、私は言った。

「本田先生、お腹すいてませんか?」

「さっき、カップ麺食べただろ。」

「そーですけど、甘いものは?」

「プリンも食った。」

甘党の本田先生はいつも食後にデザートは付き物。

「アイス、奢りますよ?」

そう誘ってみると、私の顔をジロっと見つめたあと、

「久しぶりに2人とも早く終わったから、呑みにでも行くか?」

と、聞いてくる。

「行きますっ!」

そう即答したあと、もう一度時計を見る。これで2時間、いや3時間は時間を潰せるだろう。その時間なら夫は自分の部屋にいるか父と書斎で呑んでいるに違いない。

顔を合わせる心配がないと分かり、ようやく私の気が楽になった。

………………

本田先生と入ったお店は、以前新井外科部長に連れてきてもらったことがあるワインバー。

落ち着いた雰囲気でワインはもちろん、つまみの料理も絶品だ。

「あんまり呑みすぎるなよ。」

「大丈夫です。明日は夜勤だから朝はゆっくり寝てられるし。」

「そーじゃなくて、酔いつぶれて帰ったら旦那さん心配するだろ。」

「…………。」

突然そんなことを振られて、どう答えていいかわからず黙っていると。

痺れを切らしたように本田先生が言った。

「笹倉ぁー、もしかして旦那さんと喧嘩中か?」

「え?」

「パーティーの時、なんか微妙な雰囲気だったろ。険悪って程じゃないけど、ピリピリしてるっていうか、」

あの場にいた本田先生には悪い事をした。私たちの冷めた雰囲気にヒヤヒヤしただろう。

「すみません。」

「別に俺に謝ることじゃないけど。………喧嘩の原因は?」

本田先生がプライベートに口を挟んでくるのは珍しい。何年も一緒に働いているけれど、夫の職業さえ聞かれたことがなかったくらいだ。

「原因……ですか?なんだろう。」

「プッ……なんで喧嘩してるのかも分かってないのかよ。」

呆れたように笑う。

ほんと、原因なんて忘れてしまった。だって、初めから間違えていたのだから。

「そもそも結婚した事自体、間違いだったんです。」

「えっ?!」

本田先生の顔から笑顔が消える。

「政略結婚だから、私たち。」

「政略結婚かぁ……。何年も笹倉と一緒に居たけど、まさか笹倉不動産の娘だとは知らなかったし、旦那があの道明寺家の御曹司だとはビビったよ。」

「誰から聞いたんですか?」

「パーティーに来てた人たちが噂してたのを聞いた。政略結婚なんてドラマの世界だけかと思ってたけど、やっぱあるんだなそんな世界。」

「夫は、私と結婚したかったんじゃなく『笹倉家』と結婚したかったんです。」

「でも最初はそうでも、」

「私、夫が友人に話してるのを聞いちゃって。『俺たちの結婚なんて結局、経済的利益のための協定でしかない。相手に恋愛感情なんて抱く方がおかしくて、子作りだって未来の道明寺家の為に我慢してする儀式のようなものだ』って。」

「なんだそれ、ひでーな、おまえの旦那。」

「でしょ?だから私、あの人との子供は絶対に産まないって決めたんですっ。」

そう言ってワインをがぶ飲みする私を、痛そうな目で見てくる本田先生。

「離婚しろよ、そんな奴と。」

「……出来ません。」

「なんで。」

「私が笹倉家にできる唯一の役目だから。」

今まで誰にも言ってこなかった。でも、今初めて打ち明けたら、ものすごく惨めで、ものすごく悲しくて、涙が溢れ出す。

夫と政略結婚することが、私に出来る精一杯の親孝行。

「笹倉、泣くなって〜。」

「うぅーー。」

「困ったなぁ、こいつ。おまえ、今日も当直室に泊まるか?」

こんな時、泊まりに行く女友達もいないし、電話で愚痴れる相手もいない。お金だけは苦労しない人生だったけど、私の中身は空っぽだ。

きっと私は夫が言うように、恋愛感情を抱くなんて有り得ないくらい魅力もない女なのだろう。

………………

結局、今日も家には帰れず、泣き腫らした目を隠しながら病院の当直室にあるベッドに潜り込んだ。

そしてようやくウトウトしかけた頃、携帯にメールの着信音。

真っ暗な当直室で画面を開くと、それは夫からだった。

「こはる。明日、家で待ってる。今後のことをきちんと2人で話したい。」

冷めた関係になってから3年半。こうして話し合うことを提案されたのは初めてだ。

もしかしたら夫は決心したのかもしれない。私たちの関係に終止符を打つことを。

何も返信せずそのまま携帯の電源を落とし目を閉じる。

すると、また激しい耳鳴りに襲われた。

まるで、何も考えずにこの音だけに集中しろとでも言うかのようなその耳鳴りが、今だけは救いだった。

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読者の方から「筆者のこはるさんのイメージはどんな感じですか?私は色々と妄想しながら楽しく読んでいます。」とコメントを頂きました。

それで、私の描くこはるのイメージを形にしてみたくなり、AIを使ってこはるを再現してみました。

文章中にある黒いジャケットを着て、お団子ヘアを無造作にほどいたこはる。本田ドクターの車のクラクションに驚いて振り向いた瞬間です。

こんなこはるを想像して読んで頂けると嬉しいです。

コメント

  1. クラゲ より:

    こはるちゃん、めちゃくちゃ美人で可愛いです想像しやすくなりました。
    司とお似合いですね!

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