視察団の訪町も残すところあと2日になった。
今日は特に予定も入っていなく、それぞれが観光を楽しむことになっている……と昨夜、道明寺から電話で聞いた。
正式に付き合うことになったあたしたち。
なんだか夢のようだけど、毎日かかってくるメールや電話に、これが現実なんだなと実感させられる。
明後日、道明寺が東京に帰れば遠距離恋愛の始まりだ。あたしにとっては初めてのことだし、道明寺にとっては美音さんとの苦い経験がある。
けれど、未来が不安で一歩踏み出せなかった2年半前とは違う。もう、痛いほど道明寺が好きだと実感してるから、怖くても踏み出すしかないのだ。
………………
「つくし、お昼どうする?」
コピー機の前に立っていると、同期の恵美ちゃんが通りすがりに聞いてくる。
「ごめんっ、仕事たまってて外に行けそうにないから、パン買おうかな。」
今日は金曜日。近くのパン屋さんが役場に売りに来る日だ。
「そっかぁ、なんか外も曇ってきたし、私もそうするぅー。」
OKサインを出しながら自分の席に戻っていく恵美ちゃん。
恵美ちゃんが言うように、外は薄暗く曇ってきた。天気予報では夜から小雨が降ると言っていた。
『明日一日フリーだけど、おまえは仕事なんだろ?』
昨夜道明寺が言った言葉を思い出す。
あの人は今日、何をすることにしたのだろう。
レンタカーでも借りて少し遠くまで行ってみようかなと言っていたから、ドライブでもしているのかもしれない。
出来ることなら仕事を休んで付き合ってあげたかったけれど、今日は夕方から課の会議もある。その資料作りも昼にやらなければならず、
『ごめんね。』としか道明寺に言えなかった。
資料をコピーし終え、会議に出席する人数ごとに束ねる準備をしていると、あっという間に1時間も経っていた。
お昼休憩が終わってしまう。慌ててパンが売っている役場の入口まで走っていくと、ちょうどトラックに売れ残ったパンを片付けている所だった。
「すみませーんっ、パン買いますっ!」
「おっ、牧野さんかい。」
「まだ残ってます?」
「あるよ。けど、残りはこれだけ。」
そう言ってトレーに乗っているパンを見せてくれた。メロンパン、ソーセージパン、ベビーパン、豆パン、クリームパンの残りは5個だ。
「どーしよ。クリームパン美味しそうだな、でも、しょっぱい系も食べたいし。ほんと、いつもどれ食べても美味しいですよね、ハズレ無しだから迷っちゃう。」
いつもの癖で、思考がダダ漏れだったよう。そんなあたしをお店の人がクスッと笑い、
「牧野さん、どうせ今日はこれで店じまいのつもりだったから5個全部持って行ってよ。お代は2個分でいいからさ。」
「えっ!そんなっ、それならあたし全部買いますよっ。」
「いーのいーの。美味しくてハズレ無しなんて言われちゃ、こっちもオマケしないわけにいかないからね。」
そう言って、袋に5個全てのパンを入れてくれる店主。結局、押し問答しながらも、2個分の代金で貰ってきてしまった。
デスクに戻りクリームパンとソーセージパンの2個を食べて、残りの3個は明日の朝に食べる事にしてカバンの中にしまい、急いで仕事に戻った。
夕方、会議の前に道明寺に
「今日は何して過ごしたの?」
と、メールをしてみる。
すぐには既読にならなかったので、きっと1人でドライブでも楽しんでいるのだろう。
その後、会議が終わった19時。携帯を開いてみると、道明寺から返信がありそれを読んだあたしは驚いて思わず『えっ?!』と呟いてしまった。
『キャンプ場にいる。今日はここで一晩明かすつもりだ。』
キャンプ場?こんな曇り空の日に?これから雨が降るかもしれないと言うのに、あんなお坊ちゃま育ちのあの人がソロキャンプなんて出来るわけが無い。
「お先に失礼しますっ!」
慌てて同僚たちにそう告げて、あたしは駐車場まで走った。
ここからキャンプ場までは30分。テントを張るなら、そこから20分は歩いて奥に行かなければならない。
キャンプ機材は1人用から15人用くらいまでキャンプ場の受付で借りることが出来る。それを利用したとしても、道明寺が上手くテントをはれるなんて想像がつかない。
道明寺の携帯に何度か電話しても出やしない。
「何やってるのよ。これだからお坊ちゃまは困る。キャンプなんてそんなに簡単なものじゃないっつーの!」
車を運転しながら、あたしは呟く。
そして、30分かけてキャンプ場にたどり着くと、受付小屋はもう18時で閉まっていた。駐車場には車が6台。そのうちの1台が高級車のレンタカーだ。
多分間違いない。道明寺はこれに乗って来たのだろう。
19時が過ぎてあたりはすっかり暗くなった。灯りはキャンプ場のライトだけ。あたしは職場からそのまま来たからブラウスとスラックスに足元は3cmのヒールだ。
それで川沿いのキャンプコースを歩くなんてバカげているけれど、とにかく今は道明寺を探し出して連れ帰ることだけに集中するしかない。
折りたたみ傘を車から引っ張り出し、通勤カバンに入れて、それを肩にかけあたしは黙々と歩いた。
いくつかテントが見えたけれど、家族連れやカップル。道明寺らしき人はいない。
「あのぉー、男の人で1人でキャンプに来た人、見かけてません?」
家族連れの父親に聞くと、
「あー、あの背の高い男の人のことかな。夕方、川遊びをしようと思って奥の方まで行った時に、ちょうどテント貼りしてたけどね。」
と、キャンプ場の奥を指さす。
全く、初心者だっていうのに、1人で奥まで行くなんてどうかしてる。さすがにこの辺はクマは出ないけれど、キツネだっているんだから。
ブツブツ文句を言いながらさらに15分ほど歩くと、ぼんやりと焚き火のあかりが見えてきた。
きっとあれに違いない。歩き辛いヒール靴に苦戦しながらも早歩きでそのテントに近づき中をのぞき込む。誰もいない。
でも、道明寺がスキー場で着ていた丈の長い大きめのパーカーと帽子が脱ぎ捨てられ、その横には携帯も置いてある。
辺りをキョロキョロと眺めてみるが、道明寺の姿は無い。ねぇ、まさか、川に行ったりしてないでしょうね。流れは緩やかだけど、深さは結構ある。足だけ……なんて思い、入ってみたら溺れるなんてこともあるのだ。
「もうっ、どこにいるのよ、あのバカっ。」
あたしはそう呟きながら、持ってきた通勤カバンをテントの中に放り入れ、川の方へ道明寺を探しに行くことにした。
テントから20メートルくらいの所に川が流れていて、さすがにこの辺は夜になれば真っ暗だ。
「道明寺ーっ。」
恐る恐る声をあげてみる。
「…………。」
もちろん、何も返ってこない。
と、その時、どこからともなくバシャバシャと水の音がした。
その音の方をよーく見てみると、黒い人影が川の中で何かやっているのが見えた。
「道明寺っ。」
溺れてる!咄嗟にそう思ったあたしは、ヒール靴のまま川の中に入り、その音がする方へ必死になって歩き始めた。
水深はちょうど膝くらいだ。
履いていたスラックスはもちろんずぶ濡れ、それでも音がする方へ近づいていくと、
「牧野っ?」
と、道明寺が驚いた声であたしの名前を呼ぶ。
「おまえっ、何やってんだよ。」
「道明寺、大丈夫っ?!」
「あ?大丈夫って……いーから、まずは水から出てこいよっ。」
そう言われて気付く。川の中で溺れているように見えた道明寺は、大きな岩の上にしゃがんでいるだけで、全く水に浸かっていない。むしろあたしの方が腰までビシャビシャの状態。
道明寺に手を引かれその岩の上にあがろうとしたら、今度は履いていたヒールが脱げそうになって慌てて腕をのばし水の中で靴をキャッチする。
「おまえさ、何がしてーんだよ。」
「あんたを助けようとしたんだって!」
と、必死に説明する全身ずぶ濡れのあたしを見て、道明寺は呆れて笑うばかりだ。
その後、テントに戻り途方に暮れる。
ブラウスとスラックスからはいまだに水が滴り落ちているけれど、もちろん着替えなんてない。
焚き火にあたり乾かすしかないか……そう思っていると、テントの中から道明寺が出てきて、
「これに着替えろ。」
と、さっき見た大きめのパーカーを差し出す。
「え?これに?」
「ああ。そんな格好でいたら風邪ひくぞ。」
「でも、全部濡れてて……」
「だから、全部脱いで、これに着替えろ。」
濡れているのは下着も全部だ。それを脱いで、このパーカー1枚になれと言うことか。戸惑うあたしに気付いたのか、道明寺も慌てて、付け足す。
「脱いで、この火のそばに置いておけばそのうち乾くだろ。それまでの間だ。」
「ん。」
パーカーを持ち、テントの中に入る。1人用とは言ってもかなり広いテント。下にはフカフカのブランケットがひいてあり、その上に1人分の寝袋。
道明寺が言うように全て脱ぎさり、パーカーを着てみた。道明寺が着ても大きいサイズのパーカーだから、あたしが着たらちょうど膝上くらいのスカートのようになった。
でも、さすがに裸にそれだけでは落ち着かない。濡れてはいるけれど、薄いショーツなら身につけていてもすぐに乾くだろうと思い、下のショーツだけは付けたままにすることにした。
テントを出ると、コーヒーが入った小さなキャンプ用のカップを手渡され、ひとつしかない椅子にあたしを座らせてくれる。
「ありがと。」
「ん。」
そして、道明寺は自分用にもコーヒーを入れる。その仕草が様になっていて、あたしは思わず聞いた。
「キャンプした事あるの?」
「ふっ……おまえさ、俺を誰だと思ってんだよ。」
「アウトドアなんて無縁のお坊ちゃま。」
「殺すぞ。」
「だって、そーじゃん。道明寺がキャンプとか似合わないしっ」
「小学、中学と毎年夏にイギリスに留学してたから、ボーイスカウトにも参加させられてたんだ。キャンプもしたしハイキング、川下り、街中で募金活動もしてたんだぞ。」
「プッ……ほんと?」
「久しぶりに自然に触れたらキャンプとかしたくなって、1人で満喫してやろうと思ったら、水の中から俺の彼女がやってきたからビビった。」
俺の彼女という言葉がくすぐったくて、それを隠すようにコーヒーに口をつけると、
「そういえば、牧野、夜ご飯は?」
と、道明寺が聞く。
「あー、そうだった。」
「来るって知らなかったから、俺、先に食った。」
道明寺がチラッと見る視線の先には、さっき川でジャブジャブと洗っていた簡易食器たち。
と、その時、いいことを思い出した。
「そーいえば、あたし、パン持ってるんだった!」
そう言って勢いよく立ち上がると、
「……はぁ、おまえさ、気をつけろって。見えるぞ。」
と、あたしの膝の方を指さし視線を逸らす。
パーカーの下から見える脚。道明寺の照れたような顔に、こっちまで急に頬が熱くなってくる。
「パン!3つあるから、一緒に食べよう。」
「俺はいーから、おまえが食え。」
道明寺が入れてくれたコーヒーと、お昼に貰ったパンが今日の夕食。
それを食べ終わる頃、ポツポツと小さな雨が空から降ってきた。
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