それから1ヶ月後。
俺と牧野は空港にいた。
「牧野、」
「ん?」
「泣くなって。」
「だって…」
俺の隣にいる牧野は、さっきから鼻をグズグズさせて涙目だ。
その理由は…、
俺たちの前方にいる相手。
そう、張社長とその母親だ。
「道明寺さん、牧野さん、わざわざ空港まで見送りに来て頂いてすみません。母さんもほら、挨拶して。」
張社長にそう言われ、母親はニコニコと愛想笑いをしながら俺たちに頭を下げる。
張社長の母親は認知症がかなり進行している。
この1ヶ月、日本で検査や治療を受け良い薬を処方して貰ったとは言うけれど、その効果はまだ出ていなく、俺たちの顔も名前も会う度に忘れてしまう。
「お元気で。」
牧野がそう言って涙を滲ませながら深く頭を下げると、母親はキョトンとしたままだが、
「ではまた。」
と、母国に母親を連れ帰る張社長が頭を下げる。
母親の手を取りゆっくりと搭乗口へ歩いていく姿を俺と牧野は黙って見送っていた。
と、その時だった。
母親が俺たちの方を振り向いたと思ったら、
張社長の手を離し、俺たちの方へ小走りで駆け寄ってくる。
「母さんっ!」
社長が驚いて呼びかけるけれど、その声は本人には届いていないのか、真っ直ぐに俺たちの前へ走って来た母親は、牧野の手を取り言った。
「牧野さんっ!ありがとう。あなたに借りたコート、とても暖かかったわ。」
認知症で昨日のことも忘れてしまっているはずなのに、牧野の名前を呼び、1か月前の事を語る母親。
その姿に俺たちだけでなく張社長も驚きを隠せない。
「母さんっ、牧野さんのこと分かるのか?」
「何言ってるの当たり前じゃない。牧野さんと一緒にお喋りしながら飲んだココアは最高に美味しかったわ。」
得意げな表情でそう語る姿は、認知症だとは思えないほど。
中国語が分からない牧野に、今の会話を通訳して教えてやると、
「えっ、覚えてくれてるの?嬉しい。」
と、またグズグズと泣き始める。
そんな牧野に、俺と張社長は目を合わせながら苦笑いをすると、
「さぁ、夕飯作らなくちゃ」
と、さっきまでの記憶はもう飛んでしまったのか、母親は元の認知症の姿に戻り俺たちを視界に入れることなく搭乗口へと帰って行った。
…………
張社長と母親の姿が見えなくなるまで見送った俺たちは空港から邸へと車を走らせる。
夜はババァと3人で食事をすることになっているからだ。
「ねぇ、凄い緊張するんだけど……」
「あ?なんでだよ」
「なんでって、道明寺ホールディングスの社長と食事だよ?緊張するでしょ。」
そう言って俺を軽く睨んでくる牧野に教えてやる。
「社長と食事すんじゃねーよ。」
「え?」
「おまえの義理の母親とだろ?」
あのホテルでの一件の後、俺はこいつに正式にプロポーズをした。
もちろん、ノーは受け付けねぇ。
急ピッチで牧野の親にも挨拶に行き、最短の万粒日に式の予約もした。
最高にバタバタした1ヶ月だったけど、今迄の人生の中で最高に充実した時間だった。
「ほんとに、結婚するんだねあたし達。」
「なんだよ、今更逃げても地の果てまで追いかけるからな。」
「そういうこと、本気の顔で言うのやめて貰える?怖すぎるから。
でもさ、……よくお母様許してくれたよね。」
俺も、ババァがなんの反発もなく俺が選んだ女性を受け入れるとは思っていなかった。
結婚はビジネスの延長線だと思っていたから。
それなのに、ババァはすんなりと牧野を嫁として受け入れ、まだ籍さえも入っていないのに行きつけの店や友人に紹介している。
「息子の俺よりむちゃくちゃ可愛がってんな。」
呆れながらそう呟くと、ある時タマが言った。
「坊ちゃん、奥様に牧野さんを推薦したのはタマですからね。」
「あ?」
「坊ちゃんの将来のお嫁さんに彼女は良いと推しておきましたよ。」
得意げにそう言うタマ。
「まぁ、ありがてぇけど、タマがどうして?」
「牧野さんが初めて邸に来た日覚えていますか?」
確か、千石バーのあるビルの前で酔っぱらいの男に殴られた日だ。
「ああ。」
「あの日、坊ちゃんがタマのことを一度呼んだだけで、牧野さんは名前をすぐに覚えていました。
帰り際、私の事をタマさんと呼び、丁寧にお辞儀をして帰られました。
その後、何度か坊ちゃんが邸に連れてきましたけど、運転手、メイド、調理人、会う人ごとにきちんと顔と名前を覚えてなさいます。」
「あー、確か、人の顔を覚えるのが得意だって。張社長の母親のことも一度写真を見ただけで覚えていたからな。」
「それは人としてとても強みですし、その強みはこの先坊ちゃんを助けてくれますよ。
奥様はそれを分かっているから、牧野さんをどこにでも連れ回して可愛がってるんです。」
そういうことか。
「もうババァなりの嫁教育が始まってるってことかよ。」
タマと顔を見合せて笑ったのを覚えている。
「牧野、」
「ん?」
「ババァに気に入られたらもう終わりだと思え。」
「はぁ?」
「おまえはもう完全に、俺たちの包囲網にかかってる。」
「だからっ、そう言う怖いこと言うのやめなさいって!」
俺はニヤリと笑いながら、邸までの道を走らせた。

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