それから3ヶ月たった頃、専務のNY復帰説が密かに噂されるようになってきた。
当初の目的であるラファエル氏との業務提携も無事に終結し、専務の日本支社での仕事は終盤を迎えていた。
その間、あたしの気持ちにも1つの区切りがついていた。
『専務との遠距離恋愛』
もちろん距離の遠さに不安はあるけれど、クヨクヨ考えていても仕方がない。
なるようになれと開き直るしかないのだ。
専務にいつ辞令がおりても、狼狽えない。
もう、あたしの心の準備は出来ていた。
そんなある日、西田さんから思いがけずお誘いを受けた。
「牧野さん、今週のいつでも構いませんが、終業後お時間頂けますか?」
「えっ?あっ、はい。いつでも!」
「では、今日は?」
「…も、もちろん大丈夫です。」
「それでは、時間と場所は後でメールします。
それと、…このことは専務には内密に。」
「っ!…了解しました。」
西田さんから誘われること自体ドキドキするのに、専務には内密に…といわれ、一気に緊張感が増す。
あたし、何かやらかしただろうか…。
そんな事を考えながら、終業時間までがものすごく長く感じられた。
…………………
待ち合わせ場所は、会社から歩いて15分ほどの居酒屋だった。
秘書課の呑み会で何度か使ったことがあるそのお店。今日は2人なので小さな個室に通された。
それぞれ注文したお酒に口をつけたあと、西田さんが口を開いた。
「牧野さん、」
「はいっ」
「来月、専務にNY支社へ戻る辞令が出されます。」
「え?」
予想はしていたものの、西田さんの口からそれを聞くとは思っていなかった。
「驚かせてしまってすみません。」
「いえ…でも専務からは何も聞いてなかったので。」
「当然です。専務にはまだ知らされていませんので。」
その言葉に、あたしはさらに驚く。
「えっ?!専務は知らないんですか?」
「はい。」
淡々とそう答える西田さんは、ビールのグラスを既に半分以上空けている。
「専務にはもう少し後にお伝えするつもりですが、それよりも先に牧野さんの耳に入れておきたくて。」
専務よりもあたしに?
その言葉の意味がよく分からない。
「それは…、どういう…?」
「実は、専務がNYへ戻ると同時に、牧野さんにも異動の辞令がおりる予定です。」
「あたしに?」
「はい。」
「異動って、どこの部署にですか?」
秘書課は定年や出産以外では滅多に入れ替えがない。それなのに、あたしに異動の辞令?
「部署はもちろん秘書課ですが、勤務地が…」
「勤務地?」
「NY支社へ。」
「……。」
なんの冗談だろう。
ポカンとしながらも、一応聞いてみる。
「西田さん、あたしをからかってます?」
「いえ、全然。」
「ドッキリですか?」
「そういう趣味もありません。」
だろーさ。
仕事終わりにこんなドッキリを仕掛けるほど、暇だとは思えない。
「あのぉー、ちょっと上手く理解できなくて…もう一度説明してもらってもいいですか?」
混乱する頭をブンブンと振りながらそう言うと、少しだけクスっと笑いながら西田さんが続けた。
「来月、専務がNY支社へ戻られます。もちろん、私も同行して今まで通りお仕えする予定ですが、なんせ専務のスケジュールが過密なので1人では対応しきれない部分もあります。
そこで、一人秘書の人員を増やしたいので、牧野さんにお願い出来ればと。」
「あ、あたしにですかっ?
でもっ、それならもっとベテランの英語もペラペラな…」
「仕事面だけを考えればそうですが、精神面を考えるとあなたが適任です。」
「精神面…?」
「はい。専務は牧野さんが側にいれば精神的に安定しますので。」
西田さんにそう言われ、少し頬が赤くなる。
「どうでしょう、考えて見てくれませんか?」
「……。」
「住むところは会社で手配しますし、お給料も海外勤務の手当が付きますので少しアップします。」
「……。」
なかなか直ぐに返事を出せるものでは無い。
考え込むあたしに、西田さんがポツリと言った。
「実は、牧野さんが会社を辞めたいと言ってきた時から、私はこのことを考えていました。
秘書という仕事に誇りを持ちながらも、専務と一緒にいるために会社を辞める決断をした。
そんなあなたに上司として何か出来ることはないか…そう思った時、『専務の専属秘書』という考えが浮かびました。」
「専属秘書?」
「はい。会社とは別に、専務自らが雇う秘書です。アメリカなどでは当たり前です。」
「へー、知りませんでした。」
「ただ、やはり専属秘書となればそれなりにキャリアも必要ですし、顔も広くてはなりません。」
「はぁ。」
「ですから、牧野さんには無理です。」
それは言われなくても分かる。
思わず、あははーと笑ってしまうあたしに、西田さんも苦笑する。
「幸い、あなたは会社を辞めることを踏みとどまってくれました。私ももっと牧野さんと仕事がしたい。それに、なりより専務の仕事のパフォーマンスを最大限にあげるためには、牧野さんの力が必要です。」
「…あたし、お役にたてますか?」
「もちろんです。」
………………
西田さんとその後1時間ほど話し、あたし達はお店を出た。
大きな通りまで並んで歩く。
その途中、あたしは気になっていたことを聞く。
「どうして、専務には内密になんですか?」
「辞令は正式な手続きを経て、1か月後に全社に通知する予定です。
ただ、その前に牧野さんの意向を聞いて欲しいとある方に頼まれまして。」
「ある方?」
「はい。専務のお父様である社長からです。」
「へっ?社長から?」
「専務と牧野さんが交際しているのは社長も知っています。その上で、NYにも付いてきてくれるか…その意思表示を確かめたいと。
まぁ、簡単に言えば、結婚の意思はあるか?という事じゃないでしょうかね。」
「っ!結婚ですかっ?!」
「フフフ…そんなに驚く事ですか?
専務からのプロポーズはまだ?」
「なっ、ないないっ、ないですっ!」
「時間の問題だと思いますよ。」
「そ、そんな……。」
「とにかく、社長と私の考えは今日お伝えした通りです。専務にこの事を話せば、喜ぶのは目に見ています。ですが、決めるのは牧野さんあなた次第です。
牧野さんがこのお話を蹴っても、もちろん構いません。その時は、この話は最初から無かったという事で、専務の耳には決して入らないようにしますから。」
そう言って笑った西田さんは、軽く頭を下げて、反対側の通りへと歩いていった。
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