それは雨の日の夕方だった。
その頃、昼は学校、夜は仕事といった生活を繰り返していた俺は、3日間邸に戻らずマンションで寝泊まりしていた。
その日の朝、二日ぶりに牧野の声を聞いた。
「道明寺、今日もそっちに泊まるの?」
「ああ。たぶん。」
「タマさんが、ちゃんと食事とってるのかって心配してたよ。」
「飯を食ってる暇もねーよ。
西田がなんとか手配してくれてるから心配すんなっ。」
「…………うん。わかった。じゃ、またね。」
いつもと変わりない会話をした俺たち。
そして昼過ぎ、今にも大粒の雨が降りだしてきそうな薄暗い天気の中、授業を終えて一旦マンションに戻り着替えてから、社に顔を出そうとしていた俺に、大学の校内で女が声をかけてきた。
いつも同じ講義を受けていて、自然と顔見知りになったその女は、周りのやつらとは違って、俺を道明寺HDの御曹司として見るのではなく、ごく自然に接してくる数少ないやつだった。
俺も徐々に打ち解けて、おのずと一緒にいる時間も増え、この日も次のゼミの話をしているうちに、俺のマンションまで歩いて来ちまってた。
その時、何のイタズラか空から大粒の雨が降り始め、傘を持っていない俺らは、自然な流れで俺の部屋に駆け込んだ。
今思えば、俺にしては軽率な行動だった。
そして、最悪のタイミングだった。
雨に打たれ駆け込んだマンションの玄関。
外から雨音が流れる中、女が俺に抱きついてきた。
雨で濡れたシャツは肌にぴったりと張り付いて、抱き付いてくる女の体のラインをいやでも感じとる。
「なんだよっ。」
「フフ……雨で濡れて寒いんだもん。温めてよ。」
「……タオル、持ってくる。」
「ううん。いらない。
こうしてくっついていれば温かいから。」
「…………。」
なにも言わない俺の態度を肯定ととった女は、俺に合わせるように背伸びをし、ゆっくりと俺の唇に自分の唇を押しあててきた。
連日の徹夜の仕事と、朝から続く軽い頭痛で思考が鈍っている。
押し当てるだけのキスをしながらも、俺は考えていた。
牧野とは全然ちげぇ。
あいつのはもっとあったかくて、少し薄い唇だ。
そして、俺がキスを深くすると、いつもその薄い唇を少しだけ開き、俺を受け入れてくれる。
目をつぶりながら牧野のことを考える。
そうしているうちに、女が俺の首に手を回し、体を密着させてきた。
それで鈍っていた思考が一気に引き戻され、俺は凄い勢いで
女の身体を自分から引き離そうとしたとき、
俺の目の端に、何かが映った。
それは、赤い傘だった。
誰のかは、確認しなくてもわかる。
俺が牧野にプレゼントしたものだから。
そして、その横にきちんと揃えられたちっせー靴。
俺は女の体を自分から引き離しながら、背中に冷たいものが走るのを感じた。
リビングにつながる扉に視線を向けると、細く開いているのがわかる。
俺は靴を脱ぐのも忘れて、その扉に向かい震える手で開けると、
キッチンの冷蔵庫の前で、俯いて立ち尽くす牧野がいた。
「牧野っ!」
「…………ごめん。」
おまえが謝る必要はどこにもねぇのに、俺を見て申し訳なさそうに謝るこいつ。
「タマさんから、これ預かってきたから。」
そう言って、小さな容器をいくつか指差す牧野。
中はよく見えねぇけど、食事を心配してたから何かのおかずなんだろう。
「牧野っ」
俺がその先の言葉を言い出す前に、
「勝手に入ってごめん。」
そう言って、俺の横を通り抜け、玄関へと向かった牧野は、そこに立つ女を見て一瞬立ち止まったが、すぐに動きだし靴を履いた。
そして、ドアノブに手をかけたまま
「道明寺……タオル渡してあげて。」
そう俺に言ったあと、
…………静かにドアが閉じられた。
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