約束の時間。
西田に無理言って、仕事の予定を切り上げさせてなんとか8時に間に合わせた。
こういうとき、西田は何も聞いてこねーけど、
「明日に支障が出ませんように。」
そう意味深に言ってくるところが怖ぇー。
メープルのバーの階にエレベーターを降りると、入口のすぐ横でソワソワと中を覗いてる女の姿、
怒ってたはずなのに、こいつの姿を見ただけで顔が緩むのを抑えられねぇ。
足音をさせずにこいつの背後まで来ると
「入るぞ。」
そう言って頭をガシッと掴みバーの入口をくぐった。
いつもはF3か一人で来ることしかなかったメープルのバーに、女を連れてきた俺を見て、長年そこで働くバーテンダーが一瞬驚いた顔をしたが、すぐに一番奥の人目につきにくいカウンターを目で合図した。
俺はそれに軽く手をあげて答えた後、何か言いたそうなこいつの肩に手をやってその席まで誘導した。
こいつを一番奥の席に座らせて、俺がその横に。
自然と俺の顔が他の客から見えねぇようにしたことで、知り合いに会っても声をかけられることはない。
席について
「いつものと、こいつにはあんまり強くないやつ頼む。」
そうバーテンダーに言ったあと、今日はじめてゆっくりとこいつの顔を見た。
戸惑った顔で俺を見るこいつの目の前で、俺は携帯を取り出してコールする。
3秒遅れで隣からバイブ音がした。
「……っ!…………もしかして、」
自分の携帯の液晶にうつる番号を見たこいつが、俺の方を見て呟く。
「携帯壊れてる訳じゃなさそうだな。」
「どうして……?」
「何回もかけてんのに、なんで出ねーんだよ。」
「それは、タイミングが……、いや、そうじゃなくて、どうしてあたしの番号っ」
「この間、忘れ物の中からちょっと拝借した。」
「拝借したじゃないでしょーっ。
人の勝手に調べるなんて、それ犯罪……」
「乾杯しようぜ。」
タイミングよくカクテルが運ばれてきたのをいいことに、こいつの文句は聞き流す。
「ちょっと、人の話聞いてます?」
「飲まねーならいいけど、ここのバーテンダーが作るカクテルはすげー上手いぞ。」
そう言って、こいつの前にあるカクテルを持ち上げて飲むふりをしてやると、
「いや、飲みますから!返してくださいよっ。」
慌てて俺の手からグラスを取り、こいつが一口くちにした。
「おいしい。」
途端にすげー嬉しそうな顔でそう呟くから、見てるこっちまで、なぜか嬉しくなってその濡れた唇に手を伸ばしそうになる。
慌てて視線をそらして自分のグラスに口をつけると、またこいつの携帯からバイブ音がした。
今度は俺じゃねぇ。
画面を確認したこいつは、出ることなくパタンと閉じる。
でも、すぐにまたバイブ音が鳴り出す。
渋い顔でまた確認するこいつに、
「出ろよ。」
俺はそう言った。
「えっ?いいです。」
「出ろって。」
「でも、ここじゃ、」
「いいから出ろ。」
俺はこいつの携帯を取って、ボタンを押した。
「もしもし?」
電話から聞こえたのはかすかにだが、確実に男の声。
俺を睨みながら受話器を耳に当てたこいつは、
「もしもし。うん……うん、友達と会ってるからちょっと遅くなる。
うん……鍵はあるから閉めといて大丈夫。
うん…………わかった。」
そう言って電話を切った。
「彼氏か?」
「っ!違います。」
「一緒に暮らしてるのかよ。」
「だから、違いますって。」
「鍵は閉めとけとか言ってたよな。」
「それはっ、……えっ!……あっ、うそっ!」
大事な話の途中でいきなり俺の後ろの方に視線を向けたまま、口に手を当てながら目を丸くするこいつ。
「何だよっ!」
そう言ってその視線の先を見ようとした俺に、
「ダメダメっ。」
そう言って俺のネクタイを掴み振り向かせないようにするこいつ。
突然ネクタイを引っ張られた俺は、こいつの顔ギリギリまで近寄り、こいつからは飲んでいるカクテルの甘い香りが漂ってくる。
「支社長、絶対に振り向かないでくださいね。」
そう話す声が俺の喉にダイレクトに伝わる。
「何だよ、説明しろ。」
「管理課の三沢課長です。
若い女の子連れて奥の席に入っていきました。」
「何だよ、そんなことか。」
「そんなことかじゃないでしょーが。
女の子の腰に手を当てて、デレデレした顔してこんなところで飲んでる場合じゃないんですよ。」
そう言いながら俺の方をキッと上目使いで見るこいつに、そんな場面じゃねーのに、可愛いとか思ってる俺がいて、自分でも呆れる。
「課長の奥さん、今入院中なんですよ。
検診で子宮に腫瘍が見つかったらしくて、手術したばかりのはずなのに……。
あ、あたし総務課だから社員とかその家族の色々な手続きとかの書類を作成するから、そういうのは自然と情報に詳しくて……。」
「だからって、おまえが心配してもしょーがねーだろ。」
「ん……はい。でも、自分が入院してるときに、あんな風に女の子とイチャイチャされてたら……悲しいな。」
そう言って俺の後ろを指差すこいつ。
その指す方にゆっくりと体を回転させて見てみると、ソファ席にくつろぐ男と若い女。
肩寄せあって座る二人は、死角になって見えねぇけど男の手が女の体に触れられてるのは確かだろう。
「もう一杯飲むか?」
カクテルが残りわずかになってるのを見て俺が言う。
「いえ、やめときます。」
「口に合わなかったか?」
「いえっ、違います。美味しかったです。」
「じゃあ、もう一杯作らせるから飲めよ。」
別に深い意味があってそう言った訳じゃねーのに、
「やめときます。」
と即答するこいつ。
その態度が気に食わねぇ。
「俺の酒には付き合えねーか?」
「違いますって。」
「じゃあ、飲めよ。」
「だからっ、…………また迷惑かけたら困るので。」
そう言って下を向くこいつが、何をさして迷惑と言ってるのかはすぐにわかった。
「ほんとに…………すみませんでした。
今日もその事で呼び出されたんですよね。
あたし、誰にも言ってませんし、言うつもりもないし、いやむしろ記憶から綺麗に消しましたから。
だから、支社長も気にしないで、いや、気にしてないと思いますけど、こんな風に時間を作ってもらってまで話すようなたいしたことでもないですから。」
いきなりペラペラ話し始めたかと思ったら、たいしたことじゃねーとか、綺麗に消したとか、腹立つこと言いやがって。
おまえにとってのあの夜のことは、それぐらいのなんでもねぇ出来事なのか。
ふと、こいつの首に目をやると、あの夜俺がつけた赤い痕がほとんど消えている。
時間がたてば、この痕のようにおまえの記憶からも消し去られるのか。
そう思うと、無性に腹が立ち、無性に胸が苦しくなる。
「あっ、課長が帰るみたいです。」
こいつの声で我にかえった俺は、チラッと後ろを向くと、さっきと同様、女の腰に手を当ててバーを出る二人の姿。
「今からでも奥さんのところに行ってほしいな。」
そう呟くこいつに、俺は現実を教えてやる。
「それはねーな。あの男、部屋のキー持ってたぞ。」
「……えっ?それって……」
「ああ。今日はこのままお泊まりだな。」
「うそ……。
支社長っ、早くっ!」
「な、なんだよっ」
「追いかけますよっ。早く立って!」
「バカっ、何言って……」
「浮気を許すわけにいかないじゃないですかっ!早くっ!あっ、お金!」
そう言って鞄から財布を取り出そうとしてるこいつ。
「要らねーよ。ここどこだと思ってんだよ。
あとで俺が払うからいいんだよ。」
「えっ?そうなんですか?
じゃあ、あとで金額教えてくださいね。
早くっ!もう行きますよっ!」
色々、言ってやりてぇことはある。
俺の電話に出ねぇこと、
彼氏との同棲のこと、
あの夜のこと、
あとで金額教えてくださいね?の意味がわかんねぇこと。
それなのに、俺は今、こいつに背中を押されながら隣のエレベーターが止まった階へと急いでる。
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