あと数センチ……のところで秘書のかたの声がした。
咄嗟に支社長の胸を強く押したあたしは、支社長の腕の下をくぐり抜けて1メートルほど距離をおく。
そんなあたしを、すごく不機嫌な顔で見つめたあと、「今行く。」と扉に向かって言った。
「牧野さん、大丈夫だった?」
総務課に戻ったあたしに同僚が声をかけてくれるのを、「はい。」と笑顔で返して自席につく。
そして、両手で自分の頬を包んだ。
熱い……。
キス……されるかと思った。
まさかね。そんなわけないけど、あんなに近付かれたら……勘違いしちゃう。
その夜、昨日の疲れがどっと出たのか、早くに眠りに着いたあたしの携帯に1本の知らない番号から着信があった。
翌朝気付いたけど、誰だろう?ぐらいにしか思わなかった。
そして、その次の日も、その次の日も、タイミングが悪いことにお風呂に入ってる時やコンビニまで買い物に行ってるときにかかってきて、その電話に出ることが出来なかったあたし。
まさか、それを勘違いしてこんなに怒らせてるなんて思わないじゃないっ。
着信を不本意ながら無視して3日目。
「牧野さん、内線。」
「はーい。」
いつもなら、どこからかかってきたかちゃんと確認して受け取るのに、今日に限って直前まで経理課の佐伯さんと話してたから、その流れでそのまま電話に出たあたし。
「はい、お待たせしました、牧野です。」
「内線には出るんだな。」
「っ!…………支社長?」
咄嗟に小声になる。
「今日、仕事何時に終わる?」
「えっ?」
「何時だ?」
「っ…………えーと、7時くらいだと……」
「じゃあ、8時にメープルのバーに来い。」
「…………。」
「おいっ!」
突然の誘いにも驚いてるし、いつも以上の不機嫌な声にも怯えてうまく返答が出来ない。
「あっ……えーと、それは仕事ですよね……」
「な訳ねーだろ。」
「ですね…………。」
「なんなら、今からそっちに行って説明してやろーか?完全なプライベートだってことを。」
「いやいやっ!いいです。わかります。大丈夫です。8時ですね、行きます。」
最後の方は回りに聞かれないように小声で答えるあたし。
それに、
「プッ……俺も早めに仕事切り上げるから、8時に来いよ。」
そう言って内線が切れた。
反則。
これは罰金ものでしょ。
あんなに不機嫌な声で話してたのに、
最後の最後でどこまでも優しくそんなことを言われたら、勘違いしない女なんているのかな……。
受話器を当ててた耳が熱い。
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